一臼先生の「ふるさと」日誌? 昭和1年(1926)〜20年(1945)

  • 2009/01/30(金) 00:00:01

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戦前柳井原生家写真    戦前柳井原小学校写真
 中央山裾の右側家が、一丘先生生家(戦前) 中央小高い林の中が柳井原小学校(戦前)


 次に示す「ふるさと」日誌が、随筆「かえりみれば」の原型となっている。

1〜5巻B189-32=ふる里日記1〜5


  6〜11巻B136-32=ふる里日記6〜11


昭和45年(1970)頃の柳井原風景 B91-65=1970柳井


 それぞれにつき、記述内容の概要をひもといてゆきます。


B122-40=ふるさと1〜3

「ふるさと」第一巻    昭和27年(1952)12月23日午後2時書き始める〜
                     【〜〜〜】のところは原文通り。
電報=ふるさと 第一巻は、姉上様 の危篤通知の電報から始まっている。
 電文「アネキトク スグイケ フサエ」
 発信は金光実家の奥様であり、受信月日は昭和27年11月26日である。当時の一丘先生は長女(高校1年生)次女(中学1年生)と共に、岡山市大黒町(現在の中納言町)のYs氏宅二階に居住していた。 
 その夜帰宅が遅かった一丘先生は夜半の下り列車に乗って、危篤の姉上が待つ柳井原に向かった。12月3日午後6時過ぎに姉上様が他界されてからは、特に『宿命』を感じて切々たる17頁におよぶ文面を書きつづっておられる。

 <12月23日記載内容の大筋>
酒津の山にかかる大きなまんまるい月が印象的だったこと。……そして自分の出生のこと、幼少の頃の出来事を思い出す。 特に母の死後は、姉上が母親代わりで陰に日向に自分の面倒をみてくれたこと〜。
一丘先生が姉上危篤の電報を長女から受け取り、夜半の下り列車に乗るまでには少し時間があった。長女に墨をすらせて半折へ縦「一」筆を揮毫した。この筆は上田桑鳩先生が送って下さったもの。その年の日展特選を受賞した筆である。 姉上が回復できたらこの縦「一」字作品を表装しよう。不幸の時は姉上の棺の中に収めようと決意した。
次女はグーグー眠ている〜(ここまで書いた処で大原桂南先生来られる)
27日真夜中玉島駅で下車してタクシーに乗ってなつかしい生みの親ふる里柳井原へ。姉上は生きており近親者が枕辺に集まった。さまざまな姉上の思い出が一丘先生の頭に浮かぶ。
28日は大元の黒住様へ平癒祈願に参拝し、ゴマ札を頂く。長女次女を岡山から帰らせて、三女次男の世話をさせる。姉上の子供達のことなど思う。
29日の引き潮時に突如姉上は苦しがってあばれたが何とかもちなおした。父の数え82才臨終の時が引き潮だった。
30日昼に浅野家の墓に参ったとき、突然気高い小鳥の声〜太陽は輝いている。ああ永遠〜姉は逝くのだと一丘先生は感じた。夜は姉上の長男が戦争談を話した。南方で戦死した隼戦闘隊長・軍神加藤のこと。
12月1日まで学校は欠勤した。
12月2日学校出勤。この日の帰途に高梁川西堤防で仰いだまんまるい月。この時自分の生涯を記録する「ふるさと」手記を書く決心をした一丘先生である。
 【お月様ありがとう。お姉様ありがとう】
12月3日学校へ出勤。帰途に姉上のかかりつけお医者さんと出くわす。姉上の次女婿のオート三輪に追い越される。家に着いた〜姉上の臨終である。遂に逝った。ああ。
12月4日告別式。半折に揮毫した縦線「一」を棺中の姉上の背にこっそりおぶってもらう。数え年59才午の歳(厄年)
 【姉さんよ一夫をよくここまで育てて下さった。あなたこそ永遠の人です。安らかに、さようなら。そして来年の日展も守って下さい。私は宿命の筆の生涯を突き抜けます。さようなら】 (17頁)

<昭和27年12月30日記載内容の大筋>

金光で家族一同餅つきをする。家族それぞれの生年月日など記載。
一丘先生自身の幼少のことなどを追憶して、克明に書きつづる。 〜これら幼少時代の出来事が随筆「かえりみれば」の草案になっている。
父の母(祖母)もまだ生きており、88才で大往生。家は豆腐屋を営み富裕であったが、父が浄瑠璃などにこり放蕩して財産をなくしてしまった。父は百姓したりアゲ屋などしたが、結局金欠となり渡し守となった。生家のところが貯水池となり、家を移転したが移転料も父が使い果たした。(これらの有様から想像するに、一丘先生の幼少時代はかなり厳しく淋しいものだったと伺える)
勉強は何故か好きだったが、喧嘩もよくした。川泳ぎや松茸盗人の無実の事件、ダイナマイト事件などなど〜12月になると「いのこ」祭りの挙げ句は部落同志の喧嘩。兵隊ごっこもした。
小学校3年頃だったか、書き方(現在の習字)に何か深いものがある様な気がした。これが一丘先生の宿命の門出であったと回想されている。(10頁)

     B40-60=新婚一夫先生 新婚当時の河田一夫先生。フサエ先生 B37-60=新婚フサエ先生


<昭和27年12月31日記載内容の大筋>
夜10時半頃〜家内の大掃除を済ませ、7人家族揃っておうどんとおそばを頂く。その後、一丘先生は幼少の思い出を更に綴るべく「ふるさと」日誌に向かう。
柳井原尋常小学校6年から上級学校への進学は、学資がなくて無理であった。卒業後は船穂尋常高等小学校高等科に入学した。成績はクラスでトップであったが、いたずらもよくした。
結局船穂尋常高等小学校は1年間でやめ、柳井原小学校の給仕をしながら勉学した(1年間)。この頃満州行きの誘いがあるも、年老いた父一人残せず中止した。鉄道勤務、海軍志願兵、飛行士などいろいろ考えたが全てやめた。
遂に、師範学校一部(5年制)の入学試験を受けることに決める。受験資格は高等小学校2年卒以上である。郡内からでも1,2名しかパスできない難関であり高等1年しか行っていない一丘先生は人並みではいけない。
大正天皇の平癒祈願をかねて、井戸の水かけ・願掛けをした。水かけのあとはジョギング。大正天皇崩御:大正15年12月25日。昭和に改号(元年は6日間のみ)


■岡山師範生時代

明けて昭和2年(1927)。岡山師範学校受験〜パス!(一丘先生15才4ヶ月)
 120人中の60番。合格率4人に1人。  保証人などの書類ができ、岡山一中正門南のN氏宅に住み込み手伝い・通学となる。                        (6頁半)
ここで0時となり<昭和28(1953)年1月1日>年明けである。
【今年の日展(無鑑査出品の年)もやるぞ、一生の決定線。幸運あれ】

◎昭和28年の元旦は天気上々。雑煮のお餅は一丘先生5つ、奥さん5つ、長女5つ、次女4つ、長男4つ、三女3つ、次男1つであった。年賀状三百枚舞い込む。午後奥さんの父母のところへ年賀。義父は数え72才、義母は73才、共に健在である。雑煮の餅は、義父が6つ、義母が2つであった。
さらに回顧録は続く  
 一夫青年1年?.   B38-9=T15年師範学校
 入学時の河田一夫          当時の岡山県師範学校
岡山師範学校一部へ120名が入学。甲乙丙3組のうち、一丘先生は甲組。
住み込み先のN氏宅から東山の師範学校までは徒歩約20分。かなり苦学であったが頑張った。1年の時英語の点が45点で朱がついた時はひやっとした。
2年の夏、脚気になって倒れた。一時は危篤状態になったが、やっと治った。全快後は郷里から通学、倉敷駅まで自転車で上り列車に乗った。師範学校から給費の月7円で不足する時には姉の嫁ぎ先から援助して貰った。
 当時の岡山城岡山城.jpg   柳川筋〜岡山劇場 柳川筋・岡山劇場

師範4年から勉学重くなり、2学期より寄宿舎に入った。
水泳部での思い出が多い。1500m専門の一丘先生が参加した、六高主催の大会で優勝したこと。この時多度津中学の遊佐選手(ベルリンオリンピック百m競泳で銀メダル獲得)の凄い泳ぎを見たこと。海流を知らずに大失敗したこと。1000m競泳で1等となり、芸者さんから優勝旗を渡されたこと。10kmの遠泳に成功したこと。などなど
S4.7遠泳記念 水泳部員〜 六校主優勝
 遠泳成功記念(S4=師範3年夏)                六高主催水泳大会・優勝(S5=4年夏)

師範4年(昭和6年)、学校で大火が発生する。鎮火後は東署に勾留されて取り調べられる。
4年の2学期(9月の始め)に書道(当時の習字)をやろうと決心する。上之町の井上商店で羅紋硯を買って来る。この硯は今なお愛用している。
この前後に『雄峰』書号をご自身で命名され、習字雑誌への書作品投稿練習を始める。(卒業までに、2段格まで取得される)
勿論 「習字部」には入籍していた。教師は大原桂南先生。先生の膝下からは多勢の達筆が出ている。しかし大原先生はかけ離れていた。       (以上元旦記載〜10頁)
      B134-90=習字部揃 習字部一同(昭和6年)

師範学校は昭和7年3月17日付け卒業。後から思うと、何となく画一的教育で大人物は育たない雰囲気だ。 
おん麦(男子師範)めん麦(女子師範)のこと。傑物的先生、絵画の吉富先生、歴史の永山先生、そして習字の大原桂南先生のこと、英語の杉山先生〜のことなど。
入学当時は剛毅な能瀬校長先生であり、次は副島校長であった。
                            (以上8頁半〜昭和28年1月8日午後4時となる)

更に教頭先生や他の先生方の思い出。教練もあった。事務の先生方も。
【本科正教員免許状を手にしたとき、振り返っての5年は長かった。済んでみれば短い。卒業前の試験後というものは、洋服屋が寸法をとって作ってくれた。三十円の服とレインコートを身につけて中折れ帽をかぶってギュッギュッと音のする新調の靴を履いて、寄宿舎をごとごとと舎監の眼をぬすんで挨拶回りをして下級生の勉強の邪魔をしたことだ。】

赴任する学校は昭和7年3月31日の新聞発表で「浅口郡西浦尋常高等小学校」と知った。ふる里から自転車で通勤可能である。


■海軍短期兵時代

卒業の前に5人が選ばれて5ヶ月間の海軍短期現役兵として決定した。卒業して直ちに教壇に立たなくてもいいのだ。3月31日に西阿知駅より呉に向けて出発の時は、柳井原の人々が旗を立てて祝ってくださった。
4月1日呉海兵団に入団。四等水兵として5ヶ月間の海軍生活である。
                                 (8頁 昭和28年1月9日午後12時) 
最初の一ヶ月は全くの外出禁止で艦砲射撃訓練、手旗信号、カッター漕ぎ、甲板掃除などで鍛えられる。やがて二等水兵となり、乗組員1500人、二万三千ton級の軍艦日向に乗る日がきた。連合艦隊数十隻で関門海峡を出た。全国師範から選ばれた約二百人が、戦艦それぞれに分乗した。 
        V28-40=戦艦乗船前の一夫              海軍仲間5人

昼飯後に1時間の午寝があったので、文検試験合格を目指して小筆で練習する。軍艦航行に似せた「書き判」を考案した。
5,6,7,8月の約4ヶ月間にわたっての戦艦乗船中の厳しい訓練、思い出を延々と記述しているが、ここでは省略します。
戦艦日向から特務艦間宮に乗り換えて、鳴門海峡を通過し美しい瀬戸内海を航行して呉海兵団に帰った。帰ってからの休憩中に、ふと好奇心で煙草を口にしたのが煙草愛好家の始まりであった。昭和62年に喘息のため煙草と酒をやめた。
昭和7年8月31日退団式挙行。一丘先生数え年23才(満20才)
【軍楽隊の「蛍の光」の吹奏に送られたときは、猛訓練中など二度とこんな所へ来るもんかと思うくらいの鬼の眼にも涙がほろほろと落ちた〜】
海軍生活中のこの年7月に、ふるさと柳井原では屋形船がてんぷくして遊覧中の13人が死亡するという一大事があった。


■連島小学校時代

昭和7年9月2日岡山県浅口郡連島町西浦尋常高等小学校訓導として、月俸46円で赴任した。
最初は5年生女子組に臨時配属されて、不真面目な女子児童にふくれ面を叱って大失敗した。以後は女子に顔のことをいうのは謹むことにした。 (9頁 昭和28年1月12日夜12時過ぎ

西浦小赴任後まもなく、先生方何名かで久戸瀬春洋先生に習字を指導してもらった。それから3年間、春洋先生に個人指導を受けるため毎日曜日に柳井原から金光の先生宅に通った。この頃、鍋谷紅洋氏、上原移山氏、中桐翠岳氏と知り合った。
西浦小勤務中に岡山市内の小学校習字主任に応募したが、全て失敗した。しかし幸いなことに、西浦小の習字レベルは上がり、3年後には県下でも有名になった。
 西浦小で習字実施研究授業をする当時の雄峰先生 浦小=研究授業?.


昭和10年岡山での文検予備試験にはじめて挑戦し、合格する(31名中1人)。夢のよう。 
本試験は東京で行われた。検定委員の鈴木翠軒先生が側に立たれていた。
     習字文検・東京東京での文検本試験・記念写真

昭和10年(1935)5月8日
久戸瀬春洋先生宅で知り合った浅野フサエ嬢と結婚>する。
式場……柳井原キリスト教会(渡辺美千代先生宅)
新居……金光駅前の家
後、西浦小学校付近に居を構えて同じ町内学校へ勤める。(フサエ先生は弘化小へ)

昭和10年7月岡山専修学校(現:丸之内中学校)で大原桂南主宰の黄微書道会主催で書道講習が開かれる。全国より1200人参集する。大書される鈴木翠軒先生の助手をしたり、一丘先生歓びの絶頂期である。
文検本試験合格の電報入る。昭和10年8月5日付けにて、免許状取得。
昭和11年6月長女誕生する。この年は習字の行きつまりの1年間となる。

昭和12年夏に、書道芸術社主催の講習会に出席する。この時初めて上田桑鳩先生にお会いして「遠方からよく来られましたなあ」との感激ある言葉を頂く。他にも天来門下の逸材ぞろいの先生方ばかりであった。
 書道講習会:東京府立第十中学校:1937夏 S12夏書道芸術社講習会

昭和13年(1938)4月より、浅口郡梅山尋常小学校へ突然の転勤となる。
昭和14年夏、朝鮮慶尚北道大邱師範学校への誘いがあり、北京に行かれていた桑原翠邦先生の意見を聞き決定する。 
*【「昭和14年9月26日朝鮮総督府へ出向を命ず」の辞令を手に金光駅発、下関へ。〜中略〜内地よ暫くさようなら。家族の眼にも老父の眼にも、私の眼にも涙が光った。秋は深み行く内地の山陽本線列車は西へ】             (昭和28年1月14日0時過ぎ記す


■大邱師範時代

釜山から急行列車で約2時間して南鮮の大都市大邱着。この度の世話人岡本氏の下宿先・大鳳館へ落ち着いた。岡本氏が丸坊主にしてくれる。朝鮮では断髪して、洋服もカーキ色詰め襟=軍服であった。(この時以来、一丘先生は頭髪に縁がなかった)
        一夫先生S14=28          =師範小5年生
    坊主頭にさせられた河田先生

大邱附属小主事、大邱師範学校長などに挨拶して、訓導兼教諭となる。赴任そうそうに角力指導担当となり、地域優勝までした。
天理教の佐野さん宅下宿には、中学生、師範生、税務署員などが居た。一丘先生は毎日のように奥さんへ手紙を書いていた。 
                              河田先生揮毫の門標 大丘師範小・門標

師範学校長の子供の習字指導に行って、お偉い方々によく紹介された。習字専門の師範教諭に早くなりたかった。
大邱師範学校の卒業式と同じ日の昭和15年3月15日次女誕生。電文「オンナウマレタ」。次女誕生の48日目に一丘先生と奥様、長女、次女の四人で渡鮮される。
借家住所『大邱府三笠町39』 ##=長女・次女
                                                                     昭和15年(1940) 8月
                     

昭和16年5月29日、師範(専属)教諭となり、付属小学校から去った。同年12月8日太平洋戦争勃発する。 
奥様フサエさんは下宿近くの大邱鳳山国民学校勤務となる。長女もこちらに転校する。
   


昭和18年9月に長男誕生する。一丘先生の父が手伝いのため内地より来る。以前長女が病気の時は奥様の父上がはるばる来られた。

昭和17年4月からの舎監の思い出。 
                                   舎監室にて

興亜書道展のこと。慶尚北道書道展のこと(成績表貼付)。泰東書道展のこと。
昭和18年特別講習科生引率して東京旅行、近畿巡りがあった。
         旅行=東京

昭和19年6月助教授に任命される。
諸々の情勢から戦争は負け戦だとふんだ一丘先生は、しぶる奥さんを説得して昭和19年10月10日家族を帰還させる。20年正月には、一丘先生も一度内地へ帰る。大原桂南先生が岡山市立女子商業学校への推挙をして頂く。そして再び渡鮮。
特攻隊で死んで行く生徒達〜  (以上23頁 昭和28年1月17日午後2時記

更に大邱師範学校の思い出は続く。生徒達との葛藤〜校長・教諭仲間とのやりとり〜云々。
大邱師範学校舎監室の南の硝子を通して陽が当たっている。両棟の間の庭に五角堂があった。 多分初夏だったろう。
        「晝(ひる)下り 緑蔭深き 五角堂」
 
心を五七五で表してみたいと思った。よしそれが拙いにしても、私のものであればよい。

そして一丘先生自身の内地帰還にむけて、昭和20年3月末にトランクなど荷物送る。
新任校長から正式許可がおりず「私事旅行」扱いにて了解を得る。

*【いよいよ昭和20年4月25日、この日は三国会談の日だった。朝鮮海峡を渡るのだ。五年半の石の上の生活朝鮮よ。内地で味へぬ数々の思い出よ。〜赴任した大邱師範よ。大邱のりんごよ。波高い朝鮮海峡よ。私は帰るのだ。】
無事に博多へ入港できた一丘先生は関門トンネルを通り、月明の夜に東上して第二のふる里金光に着き、ほっと吐息をもらした。   (以上20頁 昭和28年2月12日午後11時半記

                      ◇  ◇  ◇

一臼先生の「ふるさと」日誌? へ続く