奥様(フサエ様)写真帳

  • 2009/01/06(火) 23:17:07

<河田一臼記念館TOPへ>



フサエ先生の教え子
 神島浦小時代のフサエ先生が、習字にとりわけ熱心な女生徒・伊藤伍子さんに、習字雑誌などへの投稿指導をしていたことがありました。
    伊藤伍子・顔写真    伊藤伍子・文のみ

その後、笠岡高等女学校を卒業された伊藤伍子さんは、結婚されて鈴木姓となり東京へ行かれました。
筆・墨から離れられない鈴木伍子さんは、比田井小琴女史(天来先生の妻)に師事してかな書道に精進せられ、東京で書道塾を開設されるまでになりました。
幼少の頃、神島内浦小学校で熱心に教えて頂いた浅野婦佐枝先生(一臼先生の奥様)のことが忘れられない鈴木伍子さんは、昭和62年(1987)9月遂にフサエ先生の現在地を探し当てて来岡し、対面されたのです。
しかしフサエ先生は榊原病院に入院病臥されていました。充分な言葉を発せられないフサエ先生でしたが、伍子さんのことは憶えて居られて「ありがとう」と言われたそうです。
これから2ヶ月後にフサエ先生はご逝去されました。鈴木伍子さんの誠意によって、奥様フサエ様も心地よい旅立ちをされたことでしょう。

   病院宛封書

 伍子手紙B100-65=?文面
鈴木伍子様のその後の消息を知りたくて問い合わせた処、伍子さんの娘様より次のような素敵な押し花便りがありました。
     鈴木伍子の娘様より
鈴木伍子様は1998.10=約73才でご逝去されたそうです。 〜合掌〜








フサエ先生

 ◎連島弘化小時代 弘化小?.

           連島弘化小?.

連島弘化小?.

連島弘化小?.  談笑フサエさん



   外浦E・映画シーン ◎外浦神島小時代

              外浦Dシーン前

                                    外浦小Cリラックス

                                     外浦小B・11名

                                     外浦小A・・大勢


                            神島外浦小〜5
               
                             神島外浦小〜4

                             神島外浦小〜3

          神島外浦小〜2

           神島外浦小〜1


                             神島小0・浅野フサエ先生





10〜20代のフサエ様

         想い出・フサエ嬢二枚



    学生フサエ・友五人と       卒業=フサエ嬢


  フサエ嬢・女学生    ピアノとフサエさん2枚




姉〜弟   なかよし
                        なかよし


玉龍会報78(S51=1976.12)号:一臼先生ご夫婦へのインタビュー記事

<河田会長宅を訪ねて>
 市役所から老人手帳が配達されてがっくりされてる先生は65才になられた。

――先生のお生まれになったところはどこですか。

会長 浅口郡船穂町柳井原540(と番地まで正確にいわれるところが先生らしい)

――先生はずいぶん、がき大将だったようですが

会長 (しばらく考えて)田舎では正月に「亥の子」という祭りがあって、ワラをしめて土地の上をたたくのです。今夜の亥の子を祝わんものは鬼うめ蛇うめ(角のはえた子うめと奥さんが続けられる)といいながら祝う。その時部落の子供同士でけんかをするのです。その時一年上の子供と組み打ちをして指を噛んだりして、とにかく上級生に対してはよく向かって行きました。ある時先生に見つけられて教員室に呼ばれた時、「けんかもしなければならない時がある、なぜなら上級生が下級生をいじめるからだ」と言うと先生は黙っていました。(この頃からすでに先生の反骨精神はあったのだ)

――勉強の方はいかがでした。

会長 どういうわけかよく出来ていました。一年から六年まで優等で九十七点位はとって、いつもトップでした。好き嫌いもなかったです。

――どんな遊びをされていましたか。

会長 旗とりですね。夏は一日中泳ぎ、あとは魚つりです。高梁川では手長えびをよく取っていました。それからパッチンや独楽ですね。正月には凧揚げもしました。(実に健康的で素朴だったんだなあ)

――お母さんについては

会長 かぞえ年で八才の時になくなりました。

――お母さんの思い出は

会長 一度おぶってくれたこととお風呂へ入ったことをおぼえています。(としみじみと。この頃から孤独を知るようになったのでしょうか)

――お父さんの思い出は

会長 私は一人子で甘やかされていました。厳しいというより無頓着な人でした。

――中学の頃の思い出は

会長 師範学校は五年でね、高等小学校卒業して五年いくのです。思い出は水泳部にいて千五百米の選手をしていたことですね。

 県下ではいつも二番目位でした。一番にはなれませんでした。(遊佐選手と競泳したでしょうと奥さん)それはね昭和六年に近県水泳大会で水泳部が初めて優勝しました。それが最初で最後でしたが、その時多度津中学の四年生の遊佐正憲がいました。非常に速い選手で後のベルリンオリンピックへ出場しましたね。

――その当時、初恋などなかったですか

会長 ないですよ。あったら退校ですよ。

――淡い想いをもつようなことは

会長 ないですよ。(何かあるでしょうと奥さん)

会長 ないですよ。

奥さん  何かありそうですよ、思い残さず言ったらどうです。(笑)

会長 君らみたいなそんな清らかなものはないですよ。

奥さん  いじめりゃせんから言うてごらん。(笑)

会長 ないですよ。そんなものがあるんだったらよかろうけれど。(笑)

――ふるさとの山川は

会長 今にいたるまで好きですが、川の砂利をとったり、新幹線が走ったりして少しうすれましたがね。故郷の人は恋しいのはあまりいません。仲のいい仲根望(「日本の教師として」という著書がある)も東京へ出ていましたから。やっぱり人情豊かな面よりも一人でそだったから、人の同情をあまり受けていないから。嬉しかったのは優等をもらった時、いとこが何かを買ってくれたのを思い出します。自然は懐かしいですが人に感銘は余りありません。その自然も北には堤防をつくり下手にも堤防をつくり人造湖にしていて、また新幹線も通って変わってしまいました。

――書を始められたのは

会長 昭和6年9月の初めからです。何か専門的なことがやりたかったんですね。何もやるものがなかったので始めたのです。

奥さん  絵をやりたかったけれどもお金がかかるから……

会長 絵のこともあって大原美術館で児島虎次郎さんの絵を見たりしていましたが、一つの絵をつくるのに一万円もかかるというので貧乏人には出来んと思って習字をやったんですが、ところが戦後東京へ出したり日展、毎日新聞社へ出品している時は絵より安くなりませんでしたね。

奥さん  ちょうど表具代が月給と同じでしたよ。表具代を半分ずつ払って半分で生活するのが二ヶ月続きました。

会長 こっちが金に無関心で子供が五人いるのですから大変でした。おかあちゃんがよくやってくれました。

――奥様とはいつ頃のお知り合いですか(今日のインタビューの核心に近づいてきました)

会長 昭和六年頃からかな。

奥さん  そんなに早くないですよ。私は字がへたくそだから字を習いに行っていました。女一人ですよ。たくさんの男の人がいました。勇気があったでしょう。その時この人(会長)もいましたが別に意識なんかしていませんでしたよ。(笑)その頃ちょうど私の弟の五牛(書家浅野五牛氏)にすすめて私の代りに字を習いに行かせたのです。そうすると弟がこの人の所へ字の練習に行くようになって(会長は連島へ下宿して文検に通るべく猛勉強していた)弟が毎晩のように連島へ行き、私に『お姉さん、あの人は家の中はめちゃくちゃにしているけれど気はよさそうなから結婚しなさい』と言ったんです。(笑)その先はおとうちゃん話しなさいよ。

――先生は奥さんの印象はどうでしたか。

会長 ご立派な人じゃなあと思いました。

――それだけですか

会長 それ以外にありますもんですか。この人はたくさん結婚の申し込みがあったようです。ね。

――結婚しようと思われたのは

会長 もちろん私の方から申し込むんでね。こんなぶ男には誰も申し込んでくれる女(ヒト)がいるわけがないでしょう。

奥さん  (笑いながら)ほんとにこの人とどうして結婚したのかわからないの。それこそニキビがいっぱい出て紫色の斑点が顔中にでていてすごい顔をしていました。私の母が、それでも河田はかわいらしい顔をしているよと説得してくれて、父は、うちの弟は難しいのにその弟が尊敬するような人だからいい人だろうという理解の仕方で、今では想像もつかないでしょう。

会長 親が薦めたわけで、それでいやいやながら来たわけじゃ。

奥さん  いやいやながらじゃないけど好いて喜んできたわけでもないですけれど。結婚して洗面器に硼砂末を入れて水を汲んであげていたらひと月程で綺麗になったんですよ。

(親が可愛いといったのはこれじゃとアルバムを先生が見せてくれる。水兵さん姿が可愛らしい)

――結婚を申し込むのは先生ですがどうしてですか

会長 立派なからです。(と一言)

――顔が可愛らしかったからとか

会長 上品でしたからです。

奥さん  つんつんしとったでしょう。

会長 それは気高いからです。(私に向かって)今あなたが見ての通りでしょう。本当のことを言っとんです。あなた方がやっとるようなすき焼きをくうようなもっちゃりした味なんかありませんよ。

――新婚の頃は(昭和十年なのです)

奥さん  おとうちゃん(会長)は借財を背負って結婚したから楽しいより必死でした。文検に受かるために一生懸命字を書いて二階で文鎮の音がいつもしていましたね。新婚らしいというのは朝起きたら硼砂水で顔を洗ってもらうように用意していたことくらいです。私も教員で共働きで毎日が必死でした。(今はとてもなごやかな表情で話される)

昭和十四年には朝鮮へおとうちゃんが単身赴任しましたし、次女がお腹におりましたし、昔の事というとものすごく苦しかったという思いばかりで、楽しいなんていうことなかったです。厳しい世の世相で、食べることが難しかったんです。今の人は本当に幸せですよ。その頃は皆目かくし耳かくしで戦争については何も知らなかったのです。だから戦後苦労が跳ね返ってくるのが全く想像できなかったですね。私達の頃というとどうしても戦争があって笑えないような気持ちになってきますね。

――先生は子供さんに対してはどうでした。

奥さん  勉強については厳しいことはなかったですが、人間としてしなければならないことに対してしなかったりすると、非常に厳しい体罰を科していましたね。(こういう厳しさはずっとかわられてないような気がします)

――最後になりますが奥さんからみて百点満点の何点くらいあげられますか

奥さん (しばらくあって)点などつけられませんね。字のことについては、あの人自身に忠実でよくやってきたと思います。お金のことと家のことについてはあまり知らない人でした。家でも余りどうこう話をする人でなかったけれど教え子が戦争に行くときに別れに夜中に来訪したりするとおとうちゃんも涙しているのを見たり、もてあますような生徒が「先生の言われたようにやりました」等と言いに来たりしていました。とにかく私達には戦争があったからいやでしたね。(何度も戦争はいやですねと言われたのが本当に印象的でした)

――先生からみられたら奥様は何点ですか

会長 (即座に)百点満点です。それはね。精神の美しさを主としますね。おじいさんも玉島聖人といわれた人で、それを継いでいますね。今でも物というより精神を尊びますね。  (終)

 

<インタビュー後独白>インタビューした全てを載せることができませんでしたことをお詫びします。先生は思春期から青年にかけてやろうとした書の道を苦しい中をまっしぐらにやってやりぬいてこられ、奥さんは戦争という大きなうねりの中でしっかりと先生を支えてこられたことを感じました。先生の見せてくれたアルバムには女優田中絹代の若かりし頃の写真があったりして楽しい夜でした。(インタビュアー:K氏)