一臼先生の「ふるさと」日誌? 昭和20年(1945)〜28(1953)前半

  • 2009/01/30(金) 02:06:56

<河田一臼記念館TOPへ>



昭和20年5月15日付けにて、岡山市立女子商業学校に着任する。同僚教師に師範学校4級下の野上義臣氏がいた。
                女子商業

この頃B29の本土空襲は著しかった。必死で菜園を耕したことなど〜
昭和20年29日未明の岡山空襲を金光の自宅から見た。倉敷かと思えるほど、焼夷弾は空を赤く染めていた。翌朝自転車で岡山の女子商業へ行く。周りは屍ばかり〜
難波町の大原桂南先生の所では、娘さんが亡くなられていた。
昭和20年8月15日遂に終戦詔勅がラジオにて発せられる。
                          (以上9頁 昭和28年2月17日未明記

終戦直後の女子商業学校は弘西小学校に仮校舎を移した。生活のため筆を捨てた人は多かったが、一丘先生は敗戦直後から命がけの筆をひっさげての闘いが始まった。
昭和20年9月、弘西小学校教壇で
  「 破れたり ああ破れたり されどなほ 我が生命の 今日も続けり 」
第2作
  「 疲れ来て 尚疲れ来て その上に 斃れる身ならば 死ぬるともよし 」
卓球部長となって、廊下や校庭に台をだしてやり、校内試合もした。

老父芳太郎と共に、吉備郡の親戚宅回りや墓参をしたのもこの頃である。昭和21年3月に老父死去する。

翌月4月に3女誕生。

書については、用筆の内面に向いつつあった。昭和21年春、比田井天来翁の波法を観て
  「 琴線に 触れしことども さながらに もの言はぬ人の 水茎のあと 」
神崎紫峰氏の男子出産直後の死去を悼んで
  「 水茎の あと伏し拝む うれしみに 君が心の いたましきに泣く 」

昭和21年正月、上田桑鳩先生が金光に来られ浅野五牛氏と共に歓迎、入門する。
  書号「一丘」を拝受する。桑鳩先生は兵庫県に疎開中であった。
上田桑鳩先生の作
  「 いり日さす 武庫の山影 しぐれたれど はりまのぬばら 映えて静めり 」
     「 ぼけ折りて 其の一輪を 散らしけり 」
  「 菜の花の におう車窓に よき弟子と 」
(山陽本線車中にて)

昭和22年春、吉永の里を訪ねて(一丘先生作)
  「 若草は ほほえみ居たり 花もなほ 忘れ得ぬ日よ 吉永の里 」
昭和21年山かけてはづれた女生徒をあはれんだ作
  「 山かけて はずれし人の 向ふづね 静かになでる 鐘の音かな 」 
柳井原・浅野家の墓参りをして
  「 うら盆や 墓標の下(もと)に 苔青し 」 
姉の次男がシンガポールから音信が届き、陰膳をしている姉〜
  「 急ぐなよ いづれ帰国の 身にしあれば 病むことあらば 父母の泣く 」
  「 かげ膳の さびしくもあり 今朝の雪 」
山の墓下の道を自転車で通りかかったとき、犬が吠えついた。
  「 冷え冷えと この道寒し 山寒し 犬の吠えつく 道なお寒し 」

昭和22年8月、生徒達と澁川海水浴に行って
  「 四国路や 海の彼方に 漁り火の 一つ二つと 光有る見ゆ 」
  「 この海よ あの山こひし しみじみと 永久に消えたし なぎさに立ちて 」
  「 たまりかねて あさ日の海に おどり入る いとし児のごと おもうはこれわれ 」 
昭和22年夏
  『教育』 「言の葉ははがゆきものよ今更にいとし児のこと我が心に泣け」
  『墓参り 「蝉しぐれ墓標の下(もと)に苔青し」
  「土といふ題を与えて煙草吸ひ音静かなる此の土を踏む」
 島村千鶴子に与う「うらぎると言ひし心の浅はかに大いなる空に眺め入るわれ」

昭和22年秋、長女の琴を聴いて
  「 六段の 琴の調べも 音冴えて いとど身にしむ 今宵なりけり 」
同年秋、『汽車』
  「 泣き止みて 破れし障子に 見入るとき けたたましくも 汽車の過ぎ行く 」
  『誠』 「さめざめと 涙の頬をつたう時 人の誠の 胸に迫りぬ 」
  「 かなしみの きわまるところ 飴請ひて しゃぶりし涙 知る人の有り 」
  「 三界を 今こそさびしく 思いけり 両親去りし 今となりては 」
  「 小使の すすむるお茶の 塩味に 人の心の 誠をぞ知る 」


 生徒中山敏江に与う「 たらちねの 母の心をいやしてよ 父いましなば かくも思わず」
  「 光ありて 雲は行くなり おもむろに あはれ三十七の 秋暮れんとす 」
  「 焼跡の 学びの庭に 立ち上る 乙女心の 尊くもあり 」
  「 赤黄の 菊の香りに 冬の陽の やさしくあたりぬ 窓ぎはに上り 」 
 

昭和23年2月3日
  上田桑鳩先生を思う
  「 身の幸を 思い偲べば 如月や 武庫の川波 音は静けき 」
  大原桂南先生を思う
  「 身の幸を 思い偲べば 如月や 奥の山風 音は静けし 」

昭和23年2月2日3年はに組教室にて
  「 寒つばき 今日は花瓶に さされ有り 」
  ふる里がなつかしくてならない
  「 柿くえば 丸き頬の ふくらみて 入り日なつかし 故里の山 」
  宝塚の朝、武庫川の橋上に立って
  「 女下駄 かりてたたずむ 橋の上に いとど身にしむ 武庫の川風 」 
 
昭和23年2月3年いろ組教室にて「思い」作詞する。野上先生は率直な詩だと評価したが作曲は引き受けなかった。(後年、中野幹雄氏作曲)
            思い=S28かく

昭和23年3月11日卒業生謝恩会の席で、野上先生の要請で即席の作詞・作曲がなされ、ピアノで即席発表された。
『卒業生を送りて歌へる』 (別題「胸に秘めて」あるいは「あゝ」)
   < 胸に秘め 言い終えもせぬ この思い  春は来たりぬ ああ春は来ぬ >
卒業生を送る歌・野上作曲

昭和23年3月14日自作詩を中野幹雄氏に葉書で送る。
  題名「愛」
春の雨にたたかれて   夏の炎に焼かれ行き
秋虫の聲身にしみて   冬、霜柱を紅く染め
若き命の人は行く
中野氏は高田信一氏に師事して作曲を学んでいる。先年「思い」歌詞を渡しているが、一年たつがまだ出来ない。

昭和23年3月16日 寺下静子の作文を見て
 「あれこれと 思い過ごして 一年(ひととし)の 時は行きけり 今にして思う」

岡山書の美研究会を同志13名で発足させる。上田桑鳩先生の書道講習を女子商業にて行う。  
                   岡山書の美

昭和23年3月17日女子商業教員室にて、難波宏子に
 「行かんかな 我死ぬまでは 行かんかな  生まれ来りし 我行かんかな」
昭和23年3月17日5校時4年はに組にて最後の授業
 「時は行く恐ろしき如く此の時間
    我が十六年の教育の最高調  永遠に消えんとす 
       河田は憩わん 明日よりはーーーーーーーーーー
                 ああ 女子商業よ さようなら 」
                       (以上20頁 昭和28年2月17日夜記

昭和23年3月31日付けで岡山市立操山中学校の教師となる。(仮校舎:三勲幼稚園)
    この年12月に全生徒を運動場に整列させ、上半身裸になって訓話をしたことあり。

    

大邱師範附属小時代作文の「その後の蛙」を修正したのも、この頃である。
原稿B92-70=蛙?.  原稿B97-70=蛙?.
      原稿B98-70=蛙?.  原稿B95-70=蛙?.


昭和23年4月〜操山中学に転任〜下り列車内にて〜
 白百合のやうに 奥ゆかしく  そうして近代的の迫力を持って
 無言の中に 尋ねてくれた人  春の日の午後 教え児よ

 自分は何も盡さなかったのに 言ったことも今はおぼろなのに
 それでも君達は記憶しているのか それは君達が立派だからー
 操の山の緑は深い けれども覆われた幕あるやうな子供たち
 純心といふことは そんなにむずかしいことか
 どうかかっての教え児のように この学び舎の子等も
 生きとし生きる者として 甦えってほしい
 ここでも私の魂は憩わぬ
 それでも かっての熱は どこかえ行った
 もう二度と あんな熱は 出す勇気もない
 女商時代はそれ程 血の叫びだった
 思えば恐ろしい過去 思えば物足らぬ現在
 然し 今は理解する人が居る
 それだけどうも積極的で 且つ消極的だ
 芸術と教育 とても一致出来ぬ けれども食う為に教育をする
 今更卑怯な自分を知った  何時か芸術が勝つ日がなければ
 自分の生涯は偽に終るだろう  一時待て

『樹木』
 双葉の芽生えから 此の樹木 堂々と天に伸びつつあるが
 誰が どれだけの肥料を施したのか そんな筈はない 野中の一本の楠の木
 根元には雑木や草花が そして雑草が いり乱れて生えている
 これも小さい時は それ等と同じ様に 成長していたのだろう
 だが月日のたつにつれて 知らぬ間に天へ高く伸びていた
 お日様にも少しずつ近くなる 根も深く土中に入り広く張った
 枝も葉も空中へ拡がった 嵐にたたかれて驚いた
 もう仕様がない 伸びるだけ伸びよう 折れないようにすくすくと ひたすら伸びよう
 ひろがろう ああ双葉の時から そうだったんだもの
 雑草よ許せ 蔭になるだろうが 嵐よ吹けよ 折れはしない
 けれども 光は まともに受けたい

『列車』
 列車は進む 我が人生の時をきざむ様に
 昔の山川は変わらない いや変わってる 見たらわかる
 山の樹木はちょいちょいきられている ああ総べてが変わるんだ
 変わらなかったのは平和の昔のこと 今は変わるんだ
 然し自分の心は変わらない
 焼跡の岡山へ 毎日此の汽車で 行ききしている
 何を求めて 自己の生活の安定か 否
 都会へのあこがれか 否
 虚栄か 否  地位か 否  名誉か 否  金か 否
 焼土に執着があるのか そうだ  その焼土の上に尚 教育をするのだ
 思えば三年の昔から それは変っていない
 然しそれを真にわかってくれる人があるのか おそらく少ないだろう
 そんなことはどうでもいい
 自分は現在こうしている 真理がほしいのだ
 やり抜くその事がほしいのだ 人間の横目に見る世界でなくて
 自分が自分の世界を そう思いつめるのだ
 だから他の世界を考える事があっても それは関係のない他の世界だ
 変らない やはり変らない
 汽車に乗っている 人が問うのだ 汽車通いは大変だろうと
 全く大変なんだ 通勤の疲労よりも 汽車賃の高いのよりも
 教育が、生きた人間の
 形式を超えた 生きた人間をつくる それは難しい
 自分が出来ていない その自分を培うのは
 もう教育の力よりも 芸術の方がほんものなのだ
 そのほんものの芸術を見つめることを うその教育が邪魔するんだ
 こうして生まれてより悩んで来た自分
 平和時代も敗戦後も 日本でも朝鮮でも
 ああこの悩みつつある 苦しさと楽しみは
 汽車通いと同じように 恐らく一生変わらないだろう
 汽車の旅は変わるだろう これは人間が作った機械だから
 然し、此の苦しみと楽しみの 何とかしたい心根は 終生変わらぬだろう
 それは人間として生まれて来た自分だから

 汽車がホームに入る前 麦田の中に一つの電灯が光っていた
 ふと小林美和子の事を思い出した
 一女へは見えで行ったのではないと  彼女の言葉を思い出した
 わかっている 自分にははじめから ふんいきを求めたのだ
 それは過去のふんいきよりは いい 然しだ
 ふんいきも当分のこと 人をたよる間は 大切なことだが
 真に伸びる人間なら そんなふんいきも
 やがて無意味に終わるはずだ
 それが無意味に終わる期間が 長びけば
 彼女も天分もないとあきらめる人間だ ああ環境は人をつくる
 その上小林は環境を超越出来得るや
 民主主義とは実力だ   「やる」
 ああ、過去の人の作った言葉
 そして我が女商時代に 生んだ言葉
 偶然か必然か 昭和二十二年度に受け持った四年生を思う


昭和23年5月28日
『泉を愛す』
 深く掘れば掘るほど濁る この泉 けれども
 掘ることを止めた時から 静かに澄むだろう
 泉は 不思議である
昭和23年5月29日
『愛』
 愛が足らないのだ 私に足らないのだ
 だから小さな自分になる だから笑えない だから争うのだ
 ああ愛が足らない お互いに愛したら
 自分がどんなに苦しくても 此の「愛」に生きたら
 おお見つけたこのこと …………
 (操山中学の生徒にわかるだろうか  訓育論の根拠をついて)

昭和23年9月〜昭和25年3月:山陽女子高&中学の講師兼務する。
この頃、森田子龍氏、宇野雪村氏、守時大融氏と岡山での「書の美」講習会などで交流する。 豊岡、城之崎温泉にも行く。

昭和24年1月 上田桑鳩先生を思って(この頃、岡山で正月をよく過ごされた)
 「 しみじみと 面影拝し 春来たる 」
昭和24年1月=第2回書道芸術院展に二曲屏風出品(涙眼で捨て身揮毫・青墨)
            推薦第五位   読売新聞社賞
S24.2.3 三勲小学校岡校長へ作品三点(額「透徹」色紙「風景麗」色紙「天地無私春又帰」)と共に送る。
 「いくそたび 迎ふる 春の旭川 慰めやせよ 君が枕辺」

S24.2.8 揮毫後、薬を呑み終わって
 「ほろにがき 薬あふれば 陰あれど 光まばゆき あこがれの道」

S24.2.9 操山中学B組教壇にて
『瞬間』
 去り行く瞬間  止めたき瞬間
 されど行く  行く、行く  瞬間、瞬間
 瞬間は瞬間に去りて  再びなし
 瞬間は瞬間にありて  瞬間になし
 ああ恐ろしき瞬間  偉大にして虚無なる瞬間よ
 愛する暇なき瞬間は  瞬間にして消えんとす
 ああ 此の瞬間

S24.2.24 操山中学2年谷口幸枝にさとし与える歌
 「心して 涙の袖に かかりけり 今日を門出の 私にぞある」

S24.6.5 岡山師範学校で黄薇書道会例会開催する。「感受性と表現」題目で発表する。終了後、桂南先生のお言葉に感激する。帰宅後、書面を送る。
 「先生 今日は泣きました  御高恩を拝しては 心静かに泣きました
芸術書道の逆境は 私の過去のその様に まだ何年も続くでしょう
先生、今日は泣きました 心の底で泣きました
感傷の涙ではありません
若き拙い私の 心を知っていただいて あの御言葉をじっくりと
奥歯にかんで味わって 来し方、行く末思いつつ
あの御言葉に泣きました 先生 私は仰ぎます
邑久桂山の永遠に 導き賜うと知りながら
筆を執る身の幸に それだけ時勢の先がけに
歩む楽しさ苦しさを にっこり笑う拙さを
御いつくしみ賜う 御心に
先生 うれしく泣きました」

S24.7.6 教壇にて
 「今にして 向いの山の 緑にも 声なき雲は おもむろに行く」
 「今日よりは 火の塊と ならんとは 余りさびしき 現実にして」

S24.6.8 国富酸素会社跡の新校舎宿直室で
『よろこび』 
今宵はねむれぬ 今宵はねむれぬ
思いは 思いは尽きせぬ
このよろこび このうれしみ 夢かとぞ思う
誰がみしや 此の夢よ 我がよろこびよ
春の雨、しとしと降りて 尽きせぬ 此の夢 春の夢
あの山 この川 しづかに暮れゆく
待てど来ぬ人よ しづかに暮れゆく
この道、あの空

S24.9 東京芸術大学「単位認定書道講習」に学ぶ(11.15終了)=上田先生宅宿泊す。岡山駅出発=神崎紫峰、内田水香、吉鷹まつ子〜多勢の見送り 受ける。
  S23の第四回日展より、第5科に書も入った。S24第5回日展に初出品することとなる。
 
  
 S24 第二回書道芸術院展出品二曲屏風「春帰」〜推薦(読売新聞社賞)獲得

 S24書の美掲載文


S25.2 第三回書道芸術院展出品=六曲屏風「木蘭之舟」〜推薦3席・読売新聞社賞 
     


S26.1 第四回書道芸術院展出品=六曲屏風「幻想」風〜監査員出品:特別賞受け
            西阿知・佐々木壽一郎氏宅(姉娘竹子嫁入先)所蔵
                     (ここには特選の毎日展出品六曲屏風も保管)     
   
                        △同時出品の二曲屏風は金光図書館保存



S24.2 次男誕生〜上田先生の命名を変更する。

S25.4〜岡山県立岡山朝日高校へ転任する。=学事課上原正三氏、高林基郎部長の引き立てによること大。 

S24暮れの第1回書道芸術院全国学生展には、一丘先生の長女次女を含め金光小中の児童が出品して、多く入賞した。
S26.1 愛弟子船尾正夫(号・宇洪)君逝去。 朝日高書道部生徒の第2回書道芸術院全国学生展初出品作品の表装を徹夜でやったのが彼の死を早めた原因だ。数え23才であった。(山口譲、国吉幹子など金賞入賞)
人間として最も崇高なもの「至誠通神」こそ宇洪精神である。

  書の美・学生版
                               < ふるさと 第1巻 終わり>


「ふるさと」第二巻    昭和年(19)月日〜

S24=第5回日展初出品上田先生宅で仕上げた二曲屏風(題名:餘清)入選
                       ……金光駅前今井医院宅保存
           翌S25.1 岡山天満屋で日展招致され、この作品も展示された。

S25=第6回日展出品 六曲屏風「燕歌行」入選……西大寺天理教保存 

S26=第7回日展出品 六曲屏風「録陸游詩・長歌行」入選(特選候補作品)
            寂厳風と批評される〜上田先生だけは異なる。
                          ……太田徳次郎宅保存
S27=第8回日展出品 六曲屏風「北門行」特選・朝倉賞……自宅保存

S27.2 第1回奎星会展 審査員出品 六曲屏風「陸游詩・離思」特別賞   
      金光自宅裏の山本一之君宅で揮毫。   最高の表装される
    ……元三木岡山県知事室買い上げ  〜後に後楽園鶴鳴館へ移された。
         同時出品 横額「無」  臨書縦額「サンポウジ碑」ー倉敷市立東小学校保存

 土がえる文

S25.5〜S28.3=3カ年都窪郡吉備中学校習字講師を兼務
       同時に小西洋裁研究所で児童、一般の指導(内田水香氏の尽力大)

S27.1 第1回奎星会全国学生展へ朝日高書道部生、児童など出品ー入賞多大
       大阪美術館の授賞式参加する
        S27朝日書初展記事
譲〜作品 幹子作品 邦也作品記事

S27頃から、教育面での疑問・さびしさが募り、「書の理論」の客観的な樹立の必要性をしないと心細いと思った。

S26.9 大原桂南先生、鈴木翠軒先生宛葉書〜
 「言いたきを 書きて破れば 秋雨や 音したたかに 白雲のゆく」

S26.3 春休暇 金光町西谷泉勝院(天台宗)にて禅会をする。世話人=松田哲心
        師家=稲垣丹田老大師(黄檗宗)
                  禅への示唆は原田親校長であった。

S26.11 野上義臣氏宅宿泊したときの歌
 「人みなと 語り疲れて 来し山の 麓に君と 夕餉する今」  君=野上義臣氏

S27.4 長女:朝日高入学、次女:岡山大学付属中学入学。

朝日高書道部書き初め展をする。第1回=昭和26年〜
第2回書道芸術院学生展出品頃より、中納言の吉鷹宅を使わしてもらう。(ここで、習字・書道塾もしていた)

けいせい特別賞山陽記事 毎日記事けいせい最高

夕刊・けいせい特別賞


S27.4.10〜大黒町矢野惣平氏宅二階(6+4畳)に寄留する。

S27.4.15 小原君と柔道練習中に倒れる。川崎病院20日ほど入院
   8時間意識不明〜柔道のとき、禅の公案・結語に集中していた。  「高高たる峰頂に立って、不露頂をあらわさず、深深たる海底に行って、不湿脚をうるおさず」
       
  川えび生・文



S27 二学期のうた(かなり頭がとんでるようです〜:管理人)
 題「書道」
 「白あり  黒あり     黒即ち白  白即ち黒
  黒は黒  白は白     白黒之なり    」

 「山は静かでよろしいね 然し 平地へ出ると  又  闘いですね」    
  S27-うた「白黒書道」.

S27.10 第八回日展出品特選・朝倉賞獲得!
              その直後に姉上が倒れる。(12.3 死去)

  特選・祝電〜   朝倉賞受賞文〜

山陽・日展特選記事ああ


日展特選受賞後、S27.11月〜12月の歌
 「大帝(明治)の 生れ給いし 三日(みつのひ)に 右卿先生ありがたき哉」
   (11月3日日展見学の帰り、手島右卿氏の土産酒に酔い。彼の誕生日も当日)

 「 古池や 其の後蛙の 音もなし 」
 「 秋風や トンビゆったり 西へ行き 」
 「ふるさとや 卵いだきて 暮したり 今日の一日は たのしかりけり」
 「生れ来し 我が身にしあれば 行き行かむ 今日の夕べも 明日の朝(あした)も」

昭和28年正月は金光の自宅で、初めての去年につづき臼で餅つきをして、お雑煮を食べて一家7人大喜びで祝った。

この手記も、日記をつけることにしてから、本年S28に来たことは何よりうれしい。


             (以上S28.1.1までの回想日誌 昭和28年3月4日夜記



N6.9日展目録〜



S28.1〜2 地元金光にて日展入選祝賀(河田一丘特選、浅野五牛入選、留田桂香入選)書道展および茶話会(1.18)開催される。
   金光・祝賀児童展
 S28金光児童展〜.



日展特選受賞文
      S28雑誌・紀行文

 S28.1書房紀行文

家族近況などを詳しく記述〜

             (以上S28.1.10までの回想日誌 昭和28年4月16日記


この頃、書道(習字)塾にて多忙〜〜片山大拙君、内田水香嬢の助手あり
  ・金光自宅二階 =日曜午前中〜児童、生徒
  ・撫川ー武南正男氏宅=土曜、四月より月曜となる。川北修一、太田賢、岡崎賢、
               片山大拙君、内田水香、小3の曽我英二君もいた。
  ・大黒町ー矢野惣平氏宅2階
  ・西大寺町ー安田火災海上保険〜

S28.1.24-25 朝日高校第3回校内書初展

「書の美・研究会」の総務となり、「岡山県書作家連盟結成趣意書」(原案:神崎紫峰)「〜規約」(原案:笹野舟橋)など作成する。(会員百数十名)
S28書作家連盟規約S28書作家連盟趣意書


              (以上S28.1.25までの回想日誌 昭和28年4月20日記


禅修行での疲労に参る。「大悟徹底」の道など程遠い。
模範とすべき〜山岡鐵舟、白隠禅師、鉄眼禅師、達磨大師、お釈迦様、
          宇宙を貫く萬里一條の鉄
          弘法大師空海〜大和州益田池の碑

1.28 雲間から照る夕陽〜二重の虹が立った。東天に白く浮かぶ月。
      (網ノ浜墓地にある、大原桂南先生の揮毫になる墓標を凝視する)
    自分がこれ位「誠の美」に打たれたことはなかった。美の何ものかが解ってきたようだった。死ぬまで信じるのだ。そして筆を執るのだ。

1.29 書の理論化の次には「大拙」への修行をするのだ。でも年令だけのことしか書けないにちがいない。拙に徹するのは、この世にお別れする時かも知れない。 

1.31 吉備町・武南正男氏宅にて投げ筆による「点」を色紙へやった。
               墨磨り:内田水香  筆:片山大拙(吉備中教師)
     風邪気味だったが上半身裸になり30分端座後に挙行(月は東天に昇る)
2.1 浅口郡富田町の酒屋・山本恭平氏宅へ。一臼先生横額「乾坤」在り。
        2曲屏風の揮毫依頼あり。

2.2 大原桂南先生より、矢野惣平氏留守宅へ「日展特選の賀詞」届け有り。
   『筆硯如今功正成 抜群特選有聲名
      知君枝倆日愈進 藝苑他年任不軽』
〜添書〜74才桂南居士
       湯山春峰堂へ2曲屏風表装依頼する。
2.4 上月旭城と 第2回奎星会展につき話し合い。

2.6 上田桑鳩先生来岡=松井旅館泊(余公俳林堂前)〜第2回奎星会展の指導など
        四国からも参加して盛会

2.8 第2回奎星会展出品作=李白詩「労々亭」五言20字揮毫、
                     墨磨り佐川一象、酒屋・山本恭平氏依頼品

         (以上S28.2.11までの回想日誌 昭和28年5月12日記

この頃の所感=「芸術には、道には権威は不必要である。実る稲穂が無言の内に語っている。古今を通じて〜」

2.21 第2回奎星会展審査のため上京(同行:佐川、安藤、森田、内田)
3.3 卒業証書書き始める〜

3.10 朝日高校書道部第二代(藤原邦也主将、虫明、大崎、欠:竹内、大森)送別会する。   二年:栗尾、唐井、平井、一年:岩藤、岡本、今川、大岩、中西、浪速 

  この頃より本格的に書論「人生と書道」書き始める。

3.12 山本事務官依頼の板額「観山荘」揮毫
   古川教官依頼の額「観自在」揮毫〜いずれも国富校舎で。

3.22 東京から返送された第2回奎星会展出品二曲屏風作を酒屋・山本恭平氏宅で見る。

=?けい星誌作品記事〜

2曲・「労労亭」S28紀行文

 
4.2 倉敷川西町・だるま薬局の宴会に行って一泊。 
この頃魚釣りを時々する。たまに義父と連れで行く。

今年の第9回日展は無鑑査出品となる。
        山陽記事、禅公案


                〜以上、昭和28年前半までの記録〜