上田桑鳩先生

  • 2009/01/12(月) 16:46:45

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上田桑鳩先生を囲む会 (昭和41年於:松井旅館)

   

         



                  




桑鳩先生揮毫の扇作品
     

             

      
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昭和二十年代頃の上田桑鳩先生書簡

○書道芸術院脱退通知文〜
芸術院脱退=・・封書 芸術院脱退文〜修正









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桑鳩先生に入門(昭和21年)する以前の書状


 昭和12年8月の書道芸術社講習会で初めて上田桑鳩先生とお会いした後、一臼先生の礼状に対して、次のような書状を上田先生は出しておられる。

 順=文04順=文05

S12封書〜順・Vh50=順=文01順=文02順=文03

「拝復  ご丁重なる御手紙恐縮致侯  講習会中ハ誠に失禮致侯  
御地ハ全国中書道の先進地に侯得共 目下之処傾向としてハ二三
流に堕し居侯 こと実に遺憾に存侯 貴殿等大いに御努力真に千古に
通して恥じからざる書道建設の為に 御尽粋相成度願上侯 乍不及
小生も後援可致侯 もし雑誌見本等御入用存じ十部御届申上侯
よろしく願上侯   草々  九月三日   上田順    河田様」

雄峰時代(昭和十年代=1935-1945)の書状

  • 2009/01/10(土) 12:22:29

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桑原翠邦(本名:清美)先生からの書状



△大府三笠町宛の作品批評文
批評文封書

批評文ー後 批評文ー前


△翆邦先生は気さくに、河田先生宛の書簡を出しておられる。
   大丘三笠宛葉書表・翠邦   三笠宛葉書裏・翠邦


△一人住まいの大鳳町宛であるから、昭和14年10月に大邱に出向かれた翌年昭和15年2月の封書。5月には奥様等同居である。
   大丘鳳宛封書・翠邦




  金光葉書?表・桑原 金光葉書?裏・桑原 




 連島葉書?表・桑原 連島葉書?裏・桑原




一臼(雄峰)先生が大陸(大邱師範)に出向く一因ともなった、桑原翠邦先生からの葉書便。(昭和14年=1939)
    
翆邦・ペン葉書表

  「七月来肋膜にて病〜〜在御返事遅れ申し
天来先生没後は東京にも権威者少なかるべく 
満支にも無論えらい先生もよい資料も無く候
現代は書道界の渾沌時代貧困時代に付 志
あるものは所謂自主独往 自らが自らを養ふ以外に方途は無かるべく
但し国家的には有能の士は一人でも多く大陸へ渡るべきと存じ候
えらい先生には一生に一度會へばよいと小生は考
へをり候 回復をまって又改めて 敬具
                   九月五日

翆邦・ペン葉書裏



翠邦先生からの最初の書状を受けたのは、書道芸術院の講習会(昭和12年=1937)で東京に出向いた時である。
                                       S12封・桑原
「八月中ハ火曜夜分の外大概在宅のつもりに有り何時にても御来訪〜〜〜
只今一二人御いでの方も有り候日中はあつく候に付書道
芸術の講習に御出席夜分にても御遊来如何に候也
不取敢御考慮  敬具  八月二日      清美    河田様 」
S12桑原封書02 S12桑原封書01






大原桂南先生からの書簡

  • 2009/01/09(金) 20:11:10

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大原桂南(本名:専次郎)




邑久郡下笠加からの書状(戦後・昭和20年=1945以後〜)






岡山市難波町からの書状(戦前・昭和20年=1945以前)




S11? -はがき
S1--はがき はがき文面=S1--.     S1111はがき  はがき文面=S1111



S10 封書〜
               S10封書西浦=S1009
S10西浦文〜B S10西浦文〜A




「雄峰」雅号の改変について
 一臼先生の最初の雅号「雄峰」は、岡山師範時代の昭和5年頃に先生ご自身が命名されたものです。気分一新のためか否かは不明ですが、約10年後の大邱師範時代の昭和16年前後に改号について真剣に考えられ、桂南先生に相談されたようです。
 大邱府三笠町の河田先生にあてた、大原桂南先生の手紙がこれを物語っています。 
                             改号封書表書き・

           =?改号文 =?改号文

       =?改号文 =?改号文

      =?改号文

=?改号文 =?改号文
追伸において桂南先生は『改号』に対する所感を述べておられる。
「雅号ハ雄峰にて十分と・これを変更するのは何か動機が〜〜〜
若し変更するのなら桂山より外に何かよいものを考へらたらと存じ申〜」
即ち一度示した「桂山」に一臼先生が余り乗り気でなかったので、無理に
改号することもあるまいと諭されたものと思います。













一臼先生の最初の書の師は、玉島・西浦小学校でお会いになった久戸瀬春洋先生である。フサエ先生と結婚されたのも、久戸瀬春洋先生との縁があったればこそである。

 久戸瀬春洋先生が当時の一臼先生にあてた書状が一通だけ残っています。

  久戸瀬葉書・表 久戸瀬葉書・裏


〜朱印帖の旅〜

  • 2008/11/30(日) 23:32:15

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京都の寺社 

  Bh40=永観堂         黄梅院


 

興臨院  高台寺  Bh40=圓徳院




               Bh40=芳春院         Bh40=総見院

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