ふるさと日誌????【S55(1980)〜H5(1993)】

  • 2009/07/15(水) 21:25:32

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一臼先生 「ふるさと」 日誌1〜11巻終了


 H5(1993) 最後の依頼・揮毫

9月に江田五月会から依頼された「五月会だより」の揮毫が最後でした。
五月たより揮毫依頼=並び
五月たより揮毫依頼封筒







 H5(1993) 第24回玉龍会展
24回玉龍会展はがきパンフ    第24回玉龍会展記事?.

第24回玉龍会展記事?.   第24回玉龍会展記事?.



書道明H5hagaki    伊達画H5



最終章〜 ふるさと最終11巻






 H4(1992) 第23回玉龍会展     第30回教師展
第23回玉龍会展パンフ     第30回教師展はがき

1992B=書初め古文和       1992書初め曽我先生

一臼先生PR 一臼先生PR2.


傘寿色紙・寿.傘寿色紙作品集記事



 第21--22回玉龍会展(H2-3)
第22回玉龍会展パンフ第22回玉龍会展記事〜第22回玉龍会展記事B


第21回玉龍会展・パンフ〜第21回玉龍会展・記事〜第21回玉龍会展「好言」.
第21回玉龍会展・記事A
第21回玉龍会展・記事B〜


 朝日高校周年記念・大原桂南遺墨展(H3)
大原桂南遺墨?.大原桂南遺墨2

大原桂南遺墨3大原桂南遺墨4


伊達画廊H3 伊達画廊H2  安藤キンコウ作品展

書道明治H3.4 山陰旅行H2.6


                                                 ※ 第28回教師展(H3)
書初め・献寿1991        第28回教師展はがき

※ 第27回教師展(H2)
第27回教師展はがき〜H2  

伊達画廊〜H1 歳末助け合いH1   朝日高校新聞題字

書道明治の会H2


                                    ふるさと10表紙H1-5 H1〜5




        ふるさと〜?  おわり   

※ 第18・19回玉龍会展(S62--H1)
第19回玉龍会展 第19回玉龍会展記事BB
第19回玉龍会展記事下段BB

第18回玉龍会展・文〜パンフ
第18回玉龍会展・作品画像BB=第18回玉龍会展・記事11
                                    第18回玉龍会展・記事22


※ 第24,25,26回教師展(S)
第26回教師展第25回教師展第24回教師展


波濤を超えて〜
題名=波濤をこえて  波濤を〜不忘・大丘



藤門書道会展〜   岡山現代総合美術展1988

※ 書初め(S62--64=H1)
S64=1989書初め・心 書初め・項春1987=S62

※ 書歴(S61作成)
略歴・書歴〜略歴書歴〜B

※ 一臼先生と美奈ちゃん(文:江田五月)
文?「一臼先生と美奈ちゃん」.  文?「一臼先生と美奈ちゃん」.



※ 第16・17回玉龍会展(S60--61)
第17回玉龍会展はがき 第17回玉龍会展パンフ題名
第17回玉龍会展記事〜第17回玉龍会展記事〜続

第16回玉龍会展はがき 第16回玉龍会展・記事
第16回玉龍会展・文と題名.

※ 第23回書道教師展(S61)
第23回教師展はがき題名.       


紙上書初め・虎S61        山本邦夫〜書状麦焼酎・#水軍#.  見本=水軍
  

    ふるさと9・表紙




        ふるさと〜?  おわり

※ 第14・15回玉龍会展(S58--59)
第15回玉龍会展パンフ第15回玉龍会展題名あいさつ
第15回玉龍会展記事ー1
第15回玉龍会展記事ー2

第14回玉龍会展はがき 第14回玉龍会展パンフ題名・
第14回作品3点  第14回玉龍会展・記事・33
第14回玉龍会展記事〜  第14回玉龍会展記事22


※ 第20・21・22回教師展(S58--60)
第22回教師展はがき題名第21回教師展はがき題名第20回教師展はがき題名




※ 紙上書初め(S58--60)
紙上書初め「乾坤輝」S60  紙上書初め抽象・華S59  紙上書初め「翔」S58

伊達画廊〜S58    伊達画廊〜・S57




※ ご逝去〜
西政一社長ご逝去 高林先生ご逝去 高畑先生ご逝去


※ カルチャー講座
カルチャー講座
カルチャー教室風景


※ 朝日高校110周年記念展 (S59=1984)
朝日110記念展S59.12はがき
朝日110記念展記事〜


※ 柳井原小・だより〜
柳井原小・投稿文と作品
絶景の獅子が鼻 幸田橋付近の満開桜


※ 依頼揮毫〜寶満寺〜 (S62)
宝満寺〜依頼S60.2                清心女子高校封筒

みやけまり文・S58教え子申君帰国〜 運転免許証返還〜S57


※ 第13〜12回玉龍会展 (S56-57=1981-82)
第13回玉龍会展はがき第13回玉龍会展=屏風・記事
第13回玉龍会展あいさつ・題名

第13回玉龍会展=屏風「祝賀の詞」.
 
第12回玉龍会展はがき第12回玉龍会展・挨拶文・題名.
第12回玉龍会展記事 岩井新吉「一臼先生」.




※ 古稀記念展(第13回個展 S57=1982)

古稀記念はがき
古稀記念展案内状〜          古稀展〜作品行方.

書〜履歴1書〜履歴2.
箱書き明細ー3.箱書き明細ー2.  箱書き明細ー1
古稀記念展〜記事 古稀記念展礼状          落款贈与〜古稀祝い



※ 三宮・桑鳩展
三宮・桑鳩展パンフ 三宮・桑鳩展チケット

けいせい会〜最終


※ 第19回書道教師展
第19回教師展はがき題名

日展特選・履歴
書道美術新聞.  日展特選受賞〜記録


柳井原小・投稿文 大丘師範同窓会S56.10

小橋社長文・やぶにらみ

講師〜退官通知 S57.4
講師退官あいさつ状 書道明治の会.


            ふるさと8・表紙



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ふるさと日誌???S46(1971)〜S56(1981)

  • 2009/06/01(月) 00:53:32

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この章より下方より上方への進行とする。
・・・・・< ふるさと  ? > ・おわり・・・

  S54-55-第10・11回  〜玉龍会展〜
第10回玉龍会展はがき 第10回玉龍会展パンフ文題名
第10回玉龍会展記事1 第10回玉龍会展記事3.
第10回玉龍会展記事2


第11回玉龍会展パンフ題名.11回玉龍会展・題名記号
第11回玉龍会展〜記事「生成」.      方古道筆作りS56.2.



  S54-55-56  〜高校書道教師展〜
         第16回教師展はがき第16回教師展題名
教師展D17はがき・題名   第18回教師展・


清心学園カード・  キリスト愛〜           俳句3首.



  S54-56  新聞・冊子揮毫
互助会S56.7「ふるさと」絵  書初めS56「樂」. 書初め「鳳」S55
朝日高校新聞・題字 五月だより題字〜




  S55-56  岡山平和美術展
第18回平和美術展
     第19回平和美術展

華書道・推薦状S54 中華書道・・推薦S55 ブルガリア書道談推薦状  伊達画廊=


  S55.2  西養護学校石碑揮毫
西養護学校の石碑養護学校石碑文


長生会50周年S56.5.    富士五湖旅行S54.10 松枝先生ご逝去


                     全ふるさと?
これより上方・・・・・< ふるさと  ? > ・・・







  S51--53  第7〜9回玉龍会展
第9回玉龍会展はがき第9回玉龍会展・記事.
第9回玉龍会展パンフ文・題名


第8回玉龍会展はがき第8回玉龍会展・記事〜.
第8回玉龍会展パンフ文と題名第8回玉龍会展・記事

第7回玉龍会展はがき   第7回玉龍会展記事
第7回玉龍会展パンフ文題名
玉龍会展S51・記事

例会・奈良〜S53.2奈良での歌3首  鹿久島合宿S52.7.



  第14〜15回教師展
第15回教師展はがき  第15回教師展・だいめい第14回教師展・正中動

  第14〜15回墨象会展
第15回墨象会展・客員出品    第15回墨象会展・題名客員出品
第14回墨象会展・S52パンフ題名.


名士書画展S52   伊達画廊〜

  S51  第12回個展
第12回個展案内・・


 S52--53 講師勤務高校内報=投稿文
かな・みどりしたたる  金山・学園通信
清心図書館報・投稿文天城・図書館報〜
天城高校・俳句投稿投稿文スピード俳句10〜〜



 S53.6  かえりみれば出版祝賀会
かえりみれば出版記念?.  かえりみれば祝賀会席
かえりみれば出版祝賀礼状

 岡山師範学校・校歌
師範学校・校歌  師範学校校歌=歌詞
師範学校校歌楽譜?.師範学校校歌楽譜?.


 S52-53 新見〜国内旅行
満奇洞S52.7米子・三上訪問宿泊

土佐ドライブ旅行   アフリカンサファリ見学S53.8サファリ


メモランダム      懇親会(大邱師範):山佐別館
江田五月・メモランダム         大丘師範・懇親会・山さS53.8

姉久江・墓碑    姉久江・墓碑揮毫

文化センター冊子題字文化センター冊子





吉備の書シリーズ

吉備の書S50.4・万波〜 吉備の書S50.2・湯浅〜 吉備の書・宇田川s49.6
S49.3大覚大僧正 S48.11栄西〜 S47.11一休・墨跡




第13〜12回教師展 (s51--50)
第13回教師展あんない 第12回教師展・題名
第12回教師展S50


第6回玉龍会展
第6回玉龍展・パンフ 第6回玉龍展・記事
第6回玉龍展・パンフ文・題名

例会記事S50.4  第6回玉龍展「無」「鳳」行く先





第12回墨象会展・・・第24回奎星展       s50(1975)

第12回墨象会展パンフ   第24回けいせい展はがき


玉龍会チャリティー色紙展 S50
チャリティ
チャリティー展・寄付〜







中根望氏・・ご逝去
中根望=逝去たより.   中根望・逝去・打電
中根望・逝去たより?.中根望・逝去たより?.




一休展 S50.9
一休禅師〜・一休展〜・内容
一休展〜明細



天城高校〜
天城・門標揮毫〜  天城高校詩が集
卒業証書・(1).  卒業証書(2).


番町への通知はがき


台湾・教育書道代表団=親善訪問
台湾・親善訪問=  
台湾訪問推薦状台湾無鑑査出品台湾渡航手続き=
台湾訪問記事台湾・書道=無官査証



リンゴと肉・記事    山さ〜広告揮毫・.



                          ふるさと第6.jpg
これより以後(上方)・<ふるさと日誌第6>










  北海道旅行〜S49.6
 北海道旅行航空券

北海道旅行記 北海道のたび俳句


  沖縄旅行〜S48.5
沖縄ー航空券 沖縄・旅行行程.
沖縄地域ニュース 沖縄=歓談土産  料亭・那覇







  第10〜11回S48-49(1973--1974) 墨象会展
第10回墨象会展・・S48

墨象会沿革〜S48.7  第11回墨象会展パンフ




  第10〜11回S48-49(1973--1974) 教師展
第10回教師展〜    第11回教師展〜
第11回教師展・記事教師展・題名



  S48-50〜名士書画展〜
第2回名士書画展   県名士書画展=S48県名士書画展=出品題名



郷土作家展・S49.1




  S48(1973)   大原桂南先生追慕展
桂南先生追慕展=案内桂南先生13回忌追慕=表紙
桂南〜追慕展・展示目録桂南先生追慕展=趣意書






※  第8〜11回(1973--1976) 個展
第9回個展〜D10-D11 第11回個展・南山=S50


第8回個展はがき案内  第8回個展=記事





※  第5回(1974) 玉龍会〜
講師勤務〜S49   第5回玉龍会展はがき

第5回玉龍会展パンフ文

        第4回(1973) 
玉龍会展第4回パンフ  玉龍4回展〜記事
玉龍会第4回パンフ文








※ 蒋介石へ作品届ける・・・
蒋介石へ作品贈与   桑鳩先生と小林白汀

※ 小学校たより・・・
北川小「求道」揮毫〜S48news  柳井原小・校歌

新聞広告〜芸術家浅野家法要野村・満中〜文




※ S48(1973). 11.   第2回玉龍会有志書作展
有志2回パンフ表紙
広島・有志書作展2回〜パンフ

玉龍・有志〜=略歴S49玉龍・有志〜=略歴続きS49

第2回玉龍有志書作展・案内色紙・灘尾孝吉


※ S47(1972). 11.8-10   玉龍会有志書作展
有志書作展・広島はがき
       有志書作展・広島=パンフ題名
有志書作展・広島=パンフ挨拶

有志書作展・パンフ文B有志書作展・パンフ文A

有志〜目録その1 有志〜目録その2

有志〜目録その3.  有志書作展・広島=祝電




※ S47. 10.17---22   第7回個展・還暦記念河田一臼書作展
還暦記念第7回個展第7回個展・記事
第7回個展・礼状 第7回個展・祝電 還暦個展〜作品頒布=公開





※ S47. 10.3-8   第3回玉龍会展
玉龍第3回展はがき 玉龍第3回展・記事玉龍第3回展パンフ題名



※ S47. 7〜   河田一臼・作品頒布会の栞
作品頒布会・栞?.

作品頒布会・栞?.作品頒布会・略歴

作品頒布会・栞?.
作品頒布会・栞?.

略歴A略歴B




※ S47. 6   浅野家の墓・建立
墓浅野家墓・揮毫 浅野家墓建立・S47.6.


                ※ S47. 6   宝島寺・見学
投稿〜二つのこと 宝島寺見学例会〜S47.6


※ S47. 4   邱友会・同窓会(広島)
邱友会同窓会はがき案内 邱友会同窓会


※ S46.    親友・中根望氏=関連記事
中根望・記事   中根望・記事続編
中根望・出版本〜




※ S46. 12   上田桑鳩追悼展
上田桑鳩追悼展はがき桑鳩追悼展パンフ=A桑鳩追悼展・遺作出品目録

桑鳩追悼展・B挨拶文桑鳩追悼展〜門下生題名


※ S46(1971). 11.9--14    第2回・玉龍会展
第2回玉龍会展パンフ 玉龍2回展=2回展=パンフと題名
玉龍2回展=記事

玉龍2回展〜記事



※ S47.2   第9回高校教師・書道展
第9回教師展・顧問出品      第9回教師展・題名・顧問出品
記事・教師展〜








書道部OB新年会S47.1  書道部OB新年会S47.1


裁判所・書道講演S47.2.    記事・郷土貢献S46.11
記事「書道芸術家〜」.



※ S46.  岡山市美術展
岡山市美術展パンフS46=1971市美術展・題名〜



新幹線=試乗1972.2.



書道連盟顧問委託        書道連盟・顧問〜


※ S46.10.   玉龍会例会〜ハーモニカ演奏
ハーモニカ君へ色紙贈呈  ハーモニカ例会S46.10



ヤマサ歓送会コマーシャル   おかやま公報・韓国訪問記=岩井先生絵







※ S46.8韓国訪問=大邱師範同窓会に招聘される・・・

韓国訪問見送り人?. 韓国訪問見送り=出迎え

韓国訪問大感激の訪韓  大韓民国訪問
大丘師範〜?.韓国訪問韓国〜帰り便.


韓国訪問大丘師範〜?. 大丘師範〜?.




大丘師範〜?.韓国訪問訪韓〜成徳石帯・宋君揮毫軸



ふみ箱土産名簿  王様扮装
韓国訪問訪韓名簿大丘師範同窓生〜名簿

 その他の写真などは韓国訪問の思い出を参照してください。


 




※ S46.6退職後の一服・・・
その?1猫ピコ〜 玉龍会報〜12号
退職後の一服


※ S46.記念品〜〜〜みよし野〜9.11受領
退職記念品贈呈2.退職記念品贈呈1.


夫婦旅行〜日光 S46.5.29-30  夫婦旅行




OB餞別者〜1.OB餞別者〜2OB餞別者〜3.OB餞別者〜4OB餞別者〜5

※ S46.5.23書道部謝恩会(まきび荘)
書道部OB感謝会 書道部謝恩会参列者


※ 昭和46年(1968)4〜5月退職挨拶はがき、慰労会〜
退職挨拶はがき  退職教職員慰労会 退職慰労会=春秋会




※ 「思い」譜面〜
思い楽譜-01思い楽譜-02思い楽譜-03思い楽譜-04.

※ 「書道部の歌」S30野上先生よりテープ贈呈
書道部歌表紙=野上先生より  玉龍会長=名刺



ふるさと=中表紙 カット絵「命」. 退職通知書〜

一臼先生の「ふるさと」日誌その5 始めより〜

ふるさと日誌?? 昭和28年(1953)〜昭和46年(1971)3月

  • 2009/01/30(金) 03:17:35

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昭和28年(1953)〜39年(1964)
       B84-40=ふるさと4〜5


S28.7.15 毎日書道展出品・2曲銀箔屏風に「真空」を直接揮毫する。
               2曲「真空」.                     毎日展=真空

            S28紀行文




S28.7 第1回岡山県展の記事
第1回県展山陽記事
県展・規定パンフ

  S32 第4回県展規定S31第4回県展〜規定



S28.10.17 岡山市公会堂にて、河田一夫作詞・中野幹雄作曲「思い」が発表される。
 思い・発表パンフ表紙  思い発表内容






S29.1 奎星会主催の第3回全日本青少年書芸展での、朝日高校書道部3代〜の活躍。
=?青少年書芸展 =?書芸展成績〜


S29.1.31 余公寸知宅一泊〜上田桑鳩先生来岡。松井旅館で「書の美研究会」例会〜
                   奎星展出品指導。一臼作品はすでに表具中である。
第3回奎星書道展:総務審査員出品 6曲屏風「春夏秋冬閑中」(吉備町園部医院所蔵)


S29.1.6 高木潤吉備町長宅泊。
        夏の毎日書道展出品6曲屏風「森羅影裏蔵身」の揮毫約束。

S29.2.14 慰労会の席で、書作家連盟と岡山県書道協会の大同団結の理想を述べる。

S29.8 奎星8月号掲載文〜グレーフェ博士のこと
  西洋と禅=丘文.    書道と禅=G文

座禅〜  グレーフェ教授名刺フロリダ大学グレーフェ教授名刺

グレーフェ夫妻との記念写真






S29.12 朝日高校書道部の歌、にこにこ会の歌ー野上義臣作曲
書道部歌・野上より      にこにこ歌〜野上より               =書道塾案内〜

   満船明月〜       S30書芸展〜脱退



S32.10 朝日高校文化祭書道展の読売新聞記事(第9代書道部〜)
S32文化祭〜

  

この頃、短歌誌「龍」(服部忠志主宰)への投稿文多し。
   龍S32.5月号文

  龍投稿文S32.9-11      龍4〜6月  
Bh55=龍12月号文

龍表紙と文 龍投稿=大自然文

龍・投稿文〜2つ  龍・投稿文良寛

龍投稿=大自然文 龍投稿=号文


龍〜文 「わびさび」.





毎日書道展〜 S30(1955)〜33(1958)第7回〜10回展
  S30(1955)第7回展の案内〜第7回毎日展パンフ
第7回毎日展〜詳細

    S31 第8回展の出品作と寄稿文第8回毎日展作品と文

 第9回毎日展                  第10回毎日展〜明細
           S32 第9回展の案内状〜                         S33 第10回展の出品作と記録
                    







S30.8 第5回青少年書芸展の成績と出品作品
 第5回青少年展成績    第5回青少年展作品写真

S31 第6回青少年書芸展                 S32 第7回青少年書芸展
第6回青少年展〜最高賞    第8回青少年展成績


                                < ふるさと 第2巻 終わり >

 < ふるさと その三 >

        第8回全国展・追加第8回全国青少年展出品表.
                S33第8回全国青少年展

8代書道場風景・記事 S34先生囲む会

          S36=書道部11代・全国展出品目録
S35青少年展出品表?.S35青少年展出品表?.
             S37=書道部12代・全国展出品目録
      S37・全国展出品表.





毎日書道展〜 S34(1959)〜38(1963)第11回〜15回展
             前衛部門・審査員

11回毎日展パンフ11回毎日展審査員会員証12回毎日展審査員会員証

11回毎日展規約


13回毎日展パンフ 14回毎日展パンフ    15回毎日展パンフ

                15回毎日展出品作品

岡山巡回展のパンフと挨拶文15回毎日展岡山巡回挨拶.-1
巡回挨拶ー2

     「一臼」改号〜S38・6「一臼」拝領

    S39=16-7毎日展・チケット


17-8毎日・招待券  毎日審査か委員証


















S35.11 第1回河田一丘個展  S35肖像写真〜
 第1回個展パンフ 新聞記事?.

    Bh119=個展終了文〜Bh103=個展挨拶文〜

B120-29=新聞記事?.

B110-26=個展新聞記事?.

        個展作品画像は こちらの写真クリックして見て下さい。







S37.10 余公寸知先生ご逝去

墨潮・題字・追悼号. 寸知先生を語る会

 寸知一臼合作「虎驚」.  寸知氏しのぶ文





S38.11. 大原桂南先生ご逝去
桂南先生遺墨展パンフ表紙 桂南先生遺墨展記事〜 桂南先生顕彰会運営委員

  桂南先生棺「霊」.    桂南先生顕彰碑文
桂南先生の棺に納められた「霊」          碑文















S38(1963).10.29---11.3       第1回墨象会展
1回墨象会展案内状S38墨象展・倉敷パンフ

第1回墨象会展パンフ初め
1回墨象会展パンフあと

Bh60=S38・「一臼」拝領 1回墨象会展=記事〜

S39(1964).---       第2回墨象会展
  二回墨象会展展案内状〜 2回墨象会展パンフ
 二回墨象会展出品作











岡山県下高校書道教師による「書道展」
第1回展……S39(1964).2
   S39初回高校教師書道展パンフ.  教師展パンフ中味   教師展「或る形象」.

 2回書道教師展案内〜 S40・2回教師展〜






S39.3  河田一臼・近作小品展------画廊倉敷 (第2回個展)
S39.3倉敷・小品展案内状 S39.5計星文・倉敷個展













奎星会雑誌〜
投稿文=「ふるさとを想う」. 計星〜臨書手本

S39  神戸・多門寺での奎星会錬成会
   S39神戸多門寺錬成会



新聞記事より〜
S39=毎日・日曜のちゃくま  毎日・前衛書対談






S39.7  第3回個展〜新見市公民館
新見個展パンフ?. 新見個展パンフ?.

                     個展作品画像は こちらをクリックして見て下さい。










S39. 書道部第13代。14代=関連記事
S39夏合宿記事 S39書道部・記事

S40「生活」投稿文   13代書道部記事







瀬戸内海前衛書展(初回:昭和39年〜)
S39第1回瀬戸内展・案内状 瀬戸内書道展〜 瀬戸内展〜記事

瀬戸内パンフ?.瀬戸内パンフ?.




作品頒布会
作品頒布会〜


















S40・行事予定〜

S40研究授業資料?.研究授業資料?.


創立80年烏城題字. S29・創立80周年記念文〜






S39-40  14・15代全国展・出品票〜
14代・全国展出品票?
14代・全国展出品票?.

S40-15D全国展出品票A15D全国展出品票〜B



S40=書道部15代 県展・岡山芸術祭出品
15代県展成績 S39県展 15代県児童生徒展

S40県児童生徒展・委任状  S40岡山芸術祭〜

15代=全国展
S40・15代全国展  15回全国展小坂知事賞






S40.8= 15周年記念展=
15周年パンフレ

10周年展パンフレ             15周年感動ことば  =15周年〜記述.

15周年展・新聞記事 15周年祝電?.15周年祝電?.

15周年記念「和」.    15-朝日・書き初め展. 15周年記事〜・




s40(1965)第3回墨象会展
3回墨象会展パンフ   3回墨象会展〜記事.

墨象展パンフ 第3回墨象展出品者〜


墨象展=記事?.
              墨象展〜明治=記事


      習字の研究〜記事

S41(1966)毎日書道展=前衛部門審査会委員となる〜
S41.11前衛審査か委員



S41.1/2--3上田桑鳩先生を囲む会(松井旅館)
S41.1.3桑鳩先生囲む会3回教師展〜出来事



第3回高校書道教師展
3回教師展〜乾坤教師展パンフ






絵画作品展(第4回個展)開催
    感激文
  絵画作品制作の感激文      4回絵画作品展案内状

第4回色彩=個展Bh62=文?.第4回色彩=個展Bh66文?.絵画展挨拶文?.

絵画展〜 絵画展記事?.

絵画展〜関係 絵画展記事?.絵画展記事?.
色彩展・記事


絵画祝電?.絵画祝電?.絵画祝電?.絵画祝電?.絵画祝電?.

第4回色彩=個展Bh55=S41関連分絵画・祝電?. 祝電?.祝電?

                                                                                             < ふるさと 3巻 終わり >



ふるさと その四   昭和41年(1966)〜
ふるさと4表紙タイトル 禅の師家    S41.3-戒名書き込み



毎日展
S41・毎日展案内〜S41-毎日前衛書展・嘱託会員証S41=1966毎日展記事




奎星展〜
S41-25周年記念けい星展              1966けい星雑誌文





昭和41年(1966)
書道連盟会長〜任命  S41平和美術展〜出品




S41=毎日前衛書展〜第2回瀬戸内海前衛書展
前衛書・・注釈文.毎日選抜展パンフ
第2回瀬戸内展=毎日選抜展.瀬戸内海前衛書展〜
瀬戸内前衛書展ー出品者


S41.11烏城再建六高66記念祭




S41芸術祭・市美展パンフ 市美展出品票


s41(1966)第4回墨象会展
第4回墨象会展パンフ
4回墨象展・新聞記事=第4回墨象展=一臼出品内容




    =「樂」説明文S41色彩岡山の芸術27=樂

新聞挿絵作品  S42「羊」作品


岡山県下高校書道教師による「書道展」
    第4回展……S42(1967) ・・・題字:一臼、デザイン:英丘
四回書道教師展第四回教師展=・記事.

第四回教師展=記事S42.2第四回書道教師展・記事
S42.4=4回教師展・・出品題名







S41=書道部16代
書道部歴代キャプテン名簿   一中・朝日=校歌
16代出品票C16代全国展出品票D

S41・16代全国展出品票 16代全国展出品票B.

S42=書道部17代
17代全国展出品票A17代全国展出品票B.
17代全国展出品票C17代全国展出品票D17代全国展出品票E







S42〜記事
毎日「明治百年記念記事」題字  毎日・16代部員大作記事
17代書道部合宿〜  S42.4=雑誌うじょう記事

S41(1966)     42(1967)  総合美術展
S41-42=岡山県総合美術展
S42=8回県美術展・出品題名  S42=8回県美術展パンフ




S42.7=第5回個展〜新見・色彩展
色彩新見展・パンフ  色彩新見展・世話人あいさつ
色彩新見=世話人   新見展への文
幻想の色彩作品〜配布先
色彩作品の配布先





S42=第10回毎日前衛書展〜審査員会員出品「極点」
19毎日書道展10前衛書展チケット S42.3毎日委嘱会員 S42.3毎日前衛書審査か委員「極点」.S42=毎日前衛書・・審査会員  S42=毎日前衛書審査会員S42=2毎日=瀬戸内出品作「極点」.


第3回瀬戸内前衛書展
S42.8=第3回瀬戸内展案内状 S42.8=第3回瀬戸内展出品者瀬戸内展〜記事





S42=第5回墨象会展
S42.10=第5回墨象会展案内状 S42=2墨象会員名簿〜発展解消
S42第5回墨象会出品題名




S42.4=岡山師範〜同窓会(長生会)
S42=2師範同窓会AS41〜S42=2師範同窓会B
S42=2河田一夫出自

S42.10=山陽新聞社主催=児童生徒習字〜審査
S42.10習字展示〜A.S42.10習字展示〜BS42.10習字展示〜C





S42.12=第6回個展
S42.12=第6回個展・案内状第6回個展「水島鯛」記事

第6回個展ケイセイ記事 第6回個展作品頒布内容 第6回個展・・作品A.
第6回個展40点出品題名 第6回個展祝電・ケイセイ 第6回個展収支 第6回個展入場者数.
 



S43=出来事〜
朝日高校の沿革 S43.3富岡鉄斎の書=ことば S43.4.29出石町転居


S43.2=第5回書道教師展
第5回教師展〜案内状 第5回教師展〜題名







*S43=書道団体との訣別・・・想い
S43=墨象会代表・他の辞退      毎日展会員辞退〜審査制対応文

                              体辞退と想い=書芸術=想い文




S43=上田桑鳩先生の最期
桑鳩先生お見舞い桑鳩先生病気回復〜文桑鳩先生・・花・添え文

「今年になって病気をし、実に生死の境をさまようた。その時、色々のことを思うだけやってきたので、死の恐怖は殆んど感じなかったが、胸中に新たに生まれてきた夢を、まだ表現し得ずおることが悔まれて、それが一番つらかった。
 それで恢復と同時に、機を移さず、生きているうちに書きつけようと、退院の翌日から早起して書いている。そのうちの一部分を見ていただきます。上田桑鳩」
「石ハ頑ナルヲ以テ貴シトナス 節ヲ守ル意ニヨル 花ハ瓊ナルヲ好シトナス 慈愛深キ志ヲ以テナリ」

 




S43.9.4 上田桑鳩先生ご逝去
S43.9.4桑鳩先生危篤電報 桑鳩先生ご逝去=巨星・逝く〜 桑鳩先生ご逝去=電報

桑鳩先生ご逝去=戒名逝去=桑鳩先生追悼文

桑鳩先生葬儀〜はがき     桑鳩先生の寸言




S43=書道部18代=全国展出品票
18代・・全国展出品票A  18代・・全国展出品票B
18代=児童生徒展出品票18代児童生徒B


S44=書道部19代=全国展出品票
19代全国展出品票A.19代全国展出品票B
19代児童生徒展出品票A.

書道部20年題字1.書道部20年題字2



S45=書道部20代=全国展出品票
20代全国展出品票A20代全国展出品票B
20代全国展出品票C
20代児童生徒展出品票B



S44犬養木堂石碑「話せばわかる」建立(吉備中学校)
S44.5=話せばわかる石碑・記事

S44岡山新聞元旦=「林泉の美」.

S45  運転免許取得
S45.10=運転免許取得


S45岡山市美術展出品(〜最終)
S45=岡山芸術祭S45=岡山芸術祭〜パンフ


ヤマサ広告文字〜.     ヤマサ広告題字










S45.6=高松宮殿下ご鑑賞説明〜ライ療養患者作品展
S46=ライ療養者作品展記事ライ患者作品展〜
S46=ライ療養者作品展高松殿下記事  ライ患者作品展・出張依頼〜

貞明皇后パンフ1.貞明皇后パンフ2貞明皇后パンフ3貞明皇后パンフ4









仲村敏夫封書〜    仲村敏夫書状文〜



S45.4創立:玉龍会
玉龍会会則・・.               玉龍会会則つづき

一臼先生のデザインになる第1回展の案内状・パンフレット表紙
第1回玉龍会展案内状第1回玉龍会展パンフレット・

玉龍会展記事・〜.
                   玉龍会展記事・〜.




教師展=第6回(S44)  第7回(S45)
第6・7回教師展案内状
第6回教師展出品題名〜  第7回教師展題名〜

教師展=第8回(S46) 
第8回教師展第8回教師展出品題名



1MTS大家書道展出品  第20回けいせい展案内状




  朝日書道部との訣別=S46.3        よくやった=S46.3未練無し嗚呼



「ふるさと」日誌その4  終了
  以上・昭和46年3月31日定年退職まで〜記載完

一臼先生の「ふるさと」日誌? 昭和20年(1945)〜28(1953)前半

  • 2009/01/30(金) 02:06:56

<河田一臼記念館TOPへ>



昭和20年5月15日付けにて、岡山市立女子商業学校に着任する。同僚教師に師範学校4級下の野上義臣氏がいた。
                女子商業

この頃B29の本土空襲は著しかった。必死で菜園を耕したことなど〜
昭和20年29日未明の岡山空襲を金光の自宅から見た。倉敷かと思えるほど、焼夷弾は空を赤く染めていた。翌朝自転車で岡山の女子商業へ行く。周りは屍ばかり〜
難波町の大原桂南先生の所では、娘さんが亡くなられていた。
昭和20年8月15日遂に終戦詔勅がラジオにて発せられる。
                          (以上9頁 昭和28年2月17日未明記

終戦直後の女子商業学校は弘西小学校に仮校舎を移した。生活のため筆を捨てた人は多かったが、一丘先生は敗戦直後から命がけの筆をひっさげての闘いが始まった。
昭和20年9月、弘西小学校教壇で
  「 破れたり ああ破れたり されどなほ 我が生命の 今日も続けり 」
第2作
  「 疲れ来て 尚疲れ来て その上に 斃れる身ならば 死ぬるともよし 」
卓球部長となって、廊下や校庭に台をだしてやり、校内試合もした。

老父芳太郎と共に、吉備郡の親戚宅回りや墓参をしたのもこの頃である。昭和21年3月に老父死去する。

翌月4月に3女誕生。

書については、用筆の内面に向いつつあった。昭和21年春、比田井天来翁の波法を観て
  「 琴線に 触れしことども さながらに もの言はぬ人の 水茎のあと 」
神崎紫峰氏の男子出産直後の死去を悼んで
  「 水茎の あと伏し拝む うれしみに 君が心の いたましきに泣く 」

昭和21年正月、上田桑鳩先生が金光に来られ浅野五牛氏と共に歓迎、入門する。
  書号「一丘」を拝受する。桑鳩先生は兵庫県に疎開中であった。
上田桑鳩先生の作
  「 いり日さす 武庫の山影 しぐれたれど はりまのぬばら 映えて静めり 」
     「 ぼけ折りて 其の一輪を 散らしけり 」
  「 菜の花の におう車窓に よき弟子と 」
(山陽本線車中にて)

昭和22年春、吉永の里を訪ねて(一丘先生作)
  「 若草は ほほえみ居たり 花もなほ 忘れ得ぬ日よ 吉永の里 」
昭和21年山かけてはづれた女生徒をあはれんだ作
  「 山かけて はずれし人の 向ふづね 静かになでる 鐘の音かな 」 
柳井原・浅野家の墓参りをして
  「 うら盆や 墓標の下(もと)に 苔青し 」 
姉の次男がシンガポールから音信が届き、陰膳をしている姉〜
  「 急ぐなよ いづれ帰国の 身にしあれば 病むことあらば 父母の泣く 」
  「 かげ膳の さびしくもあり 今朝の雪 」
山の墓下の道を自転車で通りかかったとき、犬が吠えついた。
  「 冷え冷えと この道寒し 山寒し 犬の吠えつく 道なお寒し 」

昭和22年8月、生徒達と澁川海水浴に行って
  「 四国路や 海の彼方に 漁り火の 一つ二つと 光有る見ゆ 」
  「 この海よ あの山こひし しみじみと 永久に消えたし なぎさに立ちて 」
  「 たまりかねて あさ日の海に おどり入る いとし児のごと おもうはこれわれ 」 
昭和22年夏
  『教育』 「言の葉ははがゆきものよ今更にいとし児のこと我が心に泣け」
  『墓参り 「蝉しぐれ墓標の下(もと)に苔青し」
  「土といふ題を与えて煙草吸ひ音静かなる此の土を踏む」
 島村千鶴子に与う「うらぎると言ひし心の浅はかに大いなる空に眺め入るわれ」

昭和22年秋、長女の琴を聴いて
  「 六段の 琴の調べも 音冴えて いとど身にしむ 今宵なりけり 」
同年秋、『汽車』
  「 泣き止みて 破れし障子に 見入るとき けたたましくも 汽車の過ぎ行く 」
  『誠』 「さめざめと 涙の頬をつたう時 人の誠の 胸に迫りぬ 」
  「 かなしみの きわまるところ 飴請ひて しゃぶりし涙 知る人の有り 」
  「 三界を 今こそさびしく 思いけり 両親去りし 今となりては 」
  「 小使の すすむるお茶の 塩味に 人の心の 誠をぞ知る 」


 生徒中山敏江に与う「 たらちねの 母の心をいやしてよ 父いましなば かくも思わず」
  「 光ありて 雲は行くなり おもむろに あはれ三十七の 秋暮れんとす 」
  「 焼跡の 学びの庭に 立ち上る 乙女心の 尊くもあり 」
  「 赤黄の 菊の香りに 冬の陽の やさしくあたりぬ 窓ぎはに上り 」 
 

昭和23年2月3日
  上田桑鳩先生を思う
  「 身の幸を 思い偲べば 如月や 武庫の川波 音は静けき 」
  大原桂南先生を思う
  「 身の幸を 思い偲べば 如月や 奥の山風 音は静けし 」

昭和23年2月2日3年はに組教室にて
  「 寒つばき 今日は花瓶に さされ有り 」
  ふる里がなつかしくてならない
  「 柿くえば 丸き頬の ふくらみて 入り日なつかし 故里の山 」
  宝塚の朝、武庫川の橋上に立って
  「 女下駄 かりてたたずむ 橋の上に いとど身にしむ 武庫の川風 」 
 
昭和23年2月3年いろ組教室にて「思い」作詞する。野上先生は率直な詩だと評価したが作曲は引き受けなかった。(後年、中野幹雄氏作曲)
            思い=S28かく

昭和23年3月11日卒業生謝恩会の席で、野上先生の要請で即席の作詞・作曲がなされ、ピアノで即席発表された。
『卒業生を送りて歌へる』 (別題「胸に秘めて」あるいは「あゝ」)
   < 胸に秘め 言い終えもせぬ この思い  春は来たりぬ ああ春は来ぬ >
卒業生を送る歌・野上作曲

昭和23年3月14日自作詩を中野幹雄氏に葉書で送る。
  題名「愛」
春の雨にたたかれて   夏の炎に焼かれ行き
秋虫の聲身にしみて   冬、霜柱を紅く染め
若き命の人は行く
中野氏は高田信一氏に師事して作曲を学んでいる。先年「思い」歌詞を渡しているが、一年たつがまだ出来ない。

昭和23年3月16日 寺下静子の作文を見て
 「あれこれと 思い過ごして 一年(ひととし)の 時は行きけり 今にして思う」

岡山書の美研究会を同志13名で発足させる。上田桑鳩先生の書道講習を女子商業にて行う。  
                   岡山書の美

昭和23年3月17日女子商業教員室にて、難波宏子に
 「行かんかな 我死ぬまでは 行かんかな  生まれ来りし 我行かんかな」
昭和23年3月17日5校時4年はに組にて最後の授業
 「時は行く恐ろしき如く此の時間
    我が十六年の教育の最高調  永遠に消えんとす 
       河田は憩わん 明日よりはーーーーーーーーーー
                 ああ 女子商業よ さようなら 」
                       (以上20頁 昭和28年2月17日夜記

昭和23年3月31日付けで岡山市立操山中学校の教師となる。(仮校舎:三勲幼稚園)
    この年12月に全生徒を運動場に整列させ、上半身裸になって訓話をしたことあり。

    

大邱師範附属小時代作文の「その後の蛙」を修正したのも、この頃である。
原稿B92-70=蛙?.  原稿B97-70=蛙?.
      原稿B98-70=蛙?.  原稿B95-70=蛙?.


昭和23年4月〜操山中学に転任〜下り列車内にて〜
 白百合のやうに 奥ゆかしく  そうして近代的の迫力を持って
 無言の中に 尋ねてくれた人  春の日の午後 教え児よ

 自分は何も盡さなかったのに 言ったことも今はおぼろなのに
 それでも君達は記憶しているのか それは君達が立派だからー
 操の山の緑は深い けれども覆われた幕あるやうな子供たち
 純心といふことは そんなにむずかしいことか
 どうかかっての教え児のように この学び舎の子等も
 生きとし生きる者として 甦えってほしい
 ここでも私の魂は憩わぬ
 それでも かっての熱は どこかえ行った
 もう二度と あんな熱は 出す勇気もない
 女商時代はそれ程 血の叫びだった
 思えば恐ろしい過去 思えば物足らぬ現在
 然し 今は理解する人が居る
 それだけどうも積極的で 且つ消極的だ
 芸術と教育 とても一致出来ぬ けれども食う為に教育をする
 今更卑怯な自分を知った  何時か芸術が勝つ日がなければ
 自分の生涯は偽に終るだろう  一時待て

『樹木』
 双葉の芽生えから 此の樹木 堂々と天に伸びつつあるが
 誰が どれだけの肥料を施したのか そんな筈はない 野中の一本の楠の木
 根元には雑木や草花が そして雑草が いり乱れて生えている
 これも小さい時は それ等と同じ様に 成長していたのだろう
 だが月日のたつにつれて 知らぬ間に天へ高く伸びていた
 お日様にも少しずつ近くなる 根も深く土中に入り広く張った
 枝も葉も空中へ拡がった 嵐にたたかれて驚いた
 もう仕様がない 伸びるだけ伸びよう 折れないようにすくすくと ひたすら伸びよう
 ひろがろう ああ双葉の時から そうだったんだもの
 雑草よ許せ 蔭になるだろうが 嵐よ吹けよ 折れはしない
 けれども 光は まともに受けたい

『列車』
 列車は進む 我が人生の時をきざむ様に
 昔の山川は変わらない いや変わってる 見たらわかる
 山の樹木はちょいちょいきられている ああ総べてが変わるんだ
 変わらなかったのは平和の昔のこと 今は変わるんだ
 然し自分の心は変わらない
 焼跡の岡山へ 毎日此の汽車で 行ききしている
 何を求めて 自己の生活の安定か 否
 都会へのあこがれか 否
 虚栄か 否  地位か 否  名誉か 否  金か 否
 焼土に執着があるのか そうだ  その焼土の上に尚 教育をするのだ
 思えば三年の昔から それは変っていない
 然しそれを真にわかってくれる人があるのか おそらく少ないだろう
 そんなことはどうでもいい
 自分は現在こうしている 真理がほしいのだ
 やり抜くその事がほしいのだ 人間の横目に見る世界でなくて
 自分が自分の世界を そう思いつめるのだ
 だから他の世界を考える事があっても それは関係のない他の世界だ
 変らない やはり変らない
 汽車に乗っている 人が問うのだ 汽車通いは大変だろうと
 全く大変なんだ 通勤の疲労よりも 汽車賃の高いのよりも
 教育が、生きた人間の
 形式を超えた 生きた人間をつくる それは難しい
 自分が出来ていない その自分を培うのは
 もう教育の力よりも 芸術の方がほんものなのだ
 そのほんものの芸術を見つめることを うその教育が邪魔するんだ
 こうして生まれてより悩んで来た自分
 平和時代も敗戦後も 日本でも朝鮮でも
 ああこの悩みつつある 苦しさと楽しみは
 汽車通いと同じように 恐らく一生変わらないだろう
 汽車の旅は変わるだろう これは人間が作った機械だから
 然し、此の苦しみと楽しみの 何とかしたい心根は 終生変わらぬだろう
 それは人間として生まれて来た自分だから

 汽車がホームに入る前 麦田の中に一つの電灯が光っていた
 ふと小林美和子の事を思い出した
 一女へは見えで行ったのではないと  彼女の言葉を思い出した
 わかっている 自分にははじめから ふんいきを求めたのだ
 それは過去のふんいきよりは いい 然しだ
 ふんいきも当分のこと 人をたよる間は 大切なことだが
 真に伸びる人間なら そんなふんいきも
 やがて無意味に終わるはずだ
 それが無意味に終わる期間が 長びけば
 彼女も天分もないとあきらめる人間だ ああ環境は人をつくる
 その上小林は環境を超越出来得るや
 民主主義とは実力だ   「やる」
 ああ、過去の人の作った言葉
 そして我が女商時代に 生んだ言葉
 偶然か必然か 昭和二十二年度に受け持った四年生を思う


昭和23年5月28日
『泉を愛す』
 深く掘れば掘るほど濁る この泉 けれども
 掘ることを止めた時から 静かに澄むだろう
 泉は 不思議である
昭和23年5月29日
『愛』
 愛が足らないのだ 私に足らないのだ
 だから小さな自分になる だから笑えない だから争うのだ
 ああ愛が足らない お互いに愛したら
 自分がどんなに苦しくても 此の「愛」に生きたら
 おお見つけたこのこと …………
 (操山中学の生徒にわかるだろうか  訓育論の根拠をついて)

昭和23年9月〜昭和25年3月:山陽女子高&中学の講師兼務する。
この頃、森田子龍氏、宇野雪村氏、守時大融氏と岡山での「書の美」講習会などで交流する。 豊岡、城之崎温泉にも行く。

昭和24年1月 上田桑鳩先生を思って(この頃、岡山で正月をよく過ごされた)
 「 しみじみと 面影拝し 春来たる 」
昭和24年1月=第2回書道芸術院展に二曲屏風出品(涙眼で捨て身揮毫・青墨)
            推薦第五位   読売新聞社賞
S24.2.3 三勲小学校岡校長へ作品三点(額「透徹」色紙「風景麗」色紙「天地無私春又帰」)と共に送る。
 「いくそたび 迎ふる 春の旭川 慰めやせよ 君が枕辺」

S24.2.8 揮毫後、薬を呑み終わって
 「ほろにがき 薬あふれば 陰あれど 光まばゆき あこがれの道」

S24.2.9 操山中学B組教壇にて
『瞬間』
 去り行く瞬間  止めたき瞬間
 されど行く  行く、行く  瞬間、瞬間
 瞬間は瞬間に去りて  再びなし
 瞬間は瞬間にありて  瞬間になし
 ああ恐ろしき瞬間  偉大にして虚無なる瞬間よ
 愛する暇なき瞬間は  瞬間にして消えんとす
 ああ 此の瞬間

S24.2.24 操山中学2年谷口幸枝にさとし与える歌
 「心して 涙の袖に かかりけり 今日を門出の 私にぞある」

S24.6.5 岡山師範学校で黄薇書道会例会開催する。「感受性と表現」題目で発表する。終了後、桂南先生のお言葉に感激する。帰宅後、書面を送る。
 「先生 今日は泣きました  御高恩を拝しては 心静かに泣きました
芸術書道の逆境は 私の過去のその様に まだ何年も続くでしょう
先生、今日は泣きました 心の底で泣きました
感傷の涙ではありません
若き拙い私の 心を知っていただいて あの御言葉をじっくりと
奥歯にかんで味わって 来し方、行く末思いつつ
あの御言葉に泣きました 先生 私は仰ぎます
邑久桂山の永遠に 導き賜うと知りながら
筆を執る身の幸に それだけ時勢の先がけに
歩む楽しさ苦しさを にっこり笑う拙さを
御いつくしみ賜う 御心に
先生 うれしく泣きました」

S24.7.6 教壇にて
 「今にして 向いの山の 緑にも 声なき雲は おもむろに行く」
 「今日よりは 火の塊と ならんとは 余りさびしき 現実にして」

S24.6.8 国富酸素会社跡の新校舎宿直室で
『よろこび』 
今宵はねむれぬ 今宵はねむれぬ
思いは 思いは尽きせぬ
このよろこび このうれしみ 夢かとぞ思う
誰がみしや 此の夢よ 我がよろこびよ
春の雨、しとしと降りて 尽きせぬ 此の夢 春の夢
あの山 この川 しづかに暮れゆく
待てど来ぬ人よ しづかに暮れゆく
この道、あの空

S24.9 東京芸術大学「単位認定書道講習」に学ぶ(11.15終了)=上田先生宅宿泊す。岡山駅出発=神崎紫峰、内田水香、吉鷹まつ子〜多勢の見送り 受ける。
  S23の第四回日展より、第5科に書も入った。S24第5回日展に初出品することとなる。
 
  
 S24 第二回書道芸術院展出品二曲屏風「春帰」〜推薦(読売新聞社賞)獲得

 S24書の美掲載文


S25.2 第三回書道芸術院展出品=六曲屏風「木蘭之舟」〜推薦3席・読売新聞社賞 
     


S26.1 第四回書道芸術院展出品=六曲屏風「幻想」風〜監査員出品:特別賞受け
            西阿知・佐々木壽一郎氏宅(姉娘竹子嫁入先)所蔵
                     (ここには特選の毎日展出品六曲屏風も保管)     
   
                        △同時出品の二曲屏風は金光図書館保存



S24.2 次男誕生〜上田先生の命名を変更する。

S25.4〜岡山県立岡山朝日高校へ転任する。=学事課上原正三氏、高林基郎部長の引き立てによること大。 

S24暮れの第1回書道芸術院全国学生展には、一丘先生の長女次女を含め金光小中の児童が出品して、多く入賞した。
S26.1 愛弟子船尾正夫(号・宇洪)君逝去。 朝日高書道部生徒の第2回書道芸術院全国学生展初出品作品の表装を徹夜でやったのが彼の死を早めた原因だ。数え23才であった。(山口譲、国吉幹子など金賞入賞)
人間として最も崇高なもの「至誠通神」こそ宇洪精神である。

  書の美・学生版
                               < ふるさと 第1巻 終わり>


「ふるさと」第二巻    昭和年(19)月日〜

S24=第5回日展初出品上田先生宅で仕上げた二曲屏風(題名:餘清)入選
                       ……金光駅前今井医院宅保存
           翌S25.1 岡山天満屋で日展招致され、この作品も展示された。

S25=第6回日展出品 六曲屏風「燕歌行」入選……西大寺天理教保存 

S26=第7回日展出品 六曲屏風「録陸游詩・長歌行」入選(特選候補作品)
            寂厳風と批評される〜上田先生だけは異なる。
                          ……太田徳次郎宅保存
S27=第8回日展出品 六曲屏風「北門行」特選・朝倉賞……自宅保存

S27.2 第1回奎星会展 審査員出品 六曲屏風「陸游詩・離思」特別賞   
      金光自宅裏の山本一之君宅で揮毫。   最高の表装される
    ……元三木岡山県知事室買い上げ  〜後に後楽園鶴鳴館へ移された。
         同時出品 横額「無」  臨書縦額「サンポウジ碑」ー倉敷市立東小学校保存

 土がえる文

S25.5〜S28.3=3カ年都窪郡吉備中学校習字講師を兼務
       同時に小西洋裁研究所で児童、一般の指導(内田水香氏の尽力大)

S27.1 第1回奎星会全国学生展へ朝日高書道部生、児童など出品ー入賞多大
       大阪美術館の授賞式参加する
        S27朝日書初展記事
譲〜作品 幹子作品 邦也作品記事

S27頃から、教育面での疑問・さびしさが募り、「書の理論」の客観的な樹立の必要性をしないと心細いと思った。

S26.9 大原桂南先生、鈴木翠軒先生宛葉書〜
 「言いたきを 書きて破れば 秋雨や 音したたかに 白雲のゆく」

S26.3 春休暇 金光町西谷泉勝院(天台宗)にて禅会をする。世話人=松田哲心
        師家=稲垣丹田老大師(黄檗宗)
                  禅への示唆は原田親校長であった。

S26.11 野上義臣氏宅宿泊したときの歌
 「人みなと 語り疲れて 来し山の 麓に君と 夕餉する今」  君=野上義臣氏

S27.4 長女:朝日高入学、次女:岡山大学付属中学入学。

朝日高書道部書き初め展をする。第1回=昭和26年〜
第2回書道芸術院学生展出品頃より、中納言の吉鷹宅を使わしてもらう。(ここで、習字・書道塾もしていた)

けいせい特別賞山陽記事 毎日記事けいせい最高

夕刊・けいせい特別賞


S27.4.10〜大黒町矢野惣平氏宅二階(6+4畳)に寄留する。

S27.4.15 小原君と柔道練習中に倒れる。川崎病院20日ほど入院
   8時間意識不明〜柔道のとき、禅の公案・結語に集中していた。  「高高たる峰頂に立って、不露頂をあらわさず、深深たる海底に行って、不湿脚をうるおさず」
       
  川えび生・文



S27 二学期のうた(かなり頭がとんでるようです〜:管理人)
 題「書道」
 「白あり  黒あり     黒即ち白  白即ち黒
  黒は黒  白は白     白黒之なり    」

 「山は静かでよろしいね 然し 平地へ出ると  又  闘いですね」    
  S27-うた「白黒書道」.

S27.10 第八回日展出品特選・朝倉賞獲得!
              その直後に姉上が倒れる。(12.3 死去)

  特選・祝電〜   朝倉賞受賞文〜

山陽・日展特選記事ああ


日展特選受賞後、S27.11月〜12月の歌
 「大帝(明治)の 生れ給いし 三日(みつのひ)に 右卿先生ありがたき哉」
   (11月3日日展見学の帰り、手島右卿氏の土産酒に酔い。彼の誕生日も当日)

 「 古池や 其の後蛙の 音もなし 」
 「 秋風や トンビゆったり 西へ行き 」
 「ふるさとや 卵いだきて 暮したり 今日の一日は たのしかりけり」
 「生れ来し 我が身にしあれば 行き行かむ 今日の夕べも 明日の朝(あした)も」

昭和28年正月は金光の自宅で、初めての去年につづき臼で餅つきをして、お雑煮を食べて一家7人大喜びで祝った。

この手記も、日記をつけることにしてから、本年S28に来たことは何よりうれしい。


             (以上S28.1.1までの回想日誌 昭和28年3月4日夜記



N6.9日展目録〜



S28.1〜2 地元金光にて日展入選祝賀(河田一丘特選、浅野五牛入選、留田桂香入選)書道展および茶話会(1.18)開催される。
   金光・祝賀児童展
 S28金光児童展〜.



日展特選受賞文
      S28雑誌・紀行文

 S28.1書房紀行文

家族近況などを詳しく記述〜

             (以上S28.1.10までの回想日誌 昭和28年4月16日記


この頃、書道(習字)塾にて多忙〜〜片山大拙君、内田水香嬢の助手あり
  ・金光自宅二階 =日曜午前中〜児童、生徒
  ・撫川ー武南正男氏宅=土曜、四月より月曜となる。川北修一、太田賢、岡崎賢、
               片山大拙君、内田水香、小3の曽我英二君もいた。
  ・大黒町ー矢野惣平氏宅2階
  ・西大寺町ー安田火災海上保険〜

S28.1.24-25 朝日高校第3回校内書初展

「書の美・研究会」の総務となり、「岡山県書作家連盟結成趣意書」(原案:神崎紫峰)「〜規約」(原案:笹野舟橋)など作成する。(会員百数十名)
S28書作家連盟規約S28書作家連盟趣意書


              (以上S28.1.25までの回想日誌 昭和28年4月20日記


禅修行での疲労に参る。「大悟徹底」の道など程遠い。
模範とすべき〜山岡鐵舟、白隠禅師、鉄眼禅師、達磨大師、お釈迦様、
          宇宙を貫く萬里一條の鉄
          弘法大師空海〜大和州益田池の碑

1.28 雲間から照る夕陽〜二重の虹が立った。東天に白く浮かぶ月。
      (網ノ浜墓地にある、大原桂南先生の揮毫になる墓標を凝視する)
    自分がこれ位「誠の美」に打たれたことはなかった。美の何ものかが解ってきたようだった。死ぬまで信じるのだ。そして筆を執るのだ。

1.29 書の理論化の次には「大拙」への修行をするのだ。でも年令だけのことしか書けないにちがいない。拙に徹するのは、この世にお別れする時かも知れない。 

1.31 吉備町・武南正男氏宅にて投げ筆による「点」を色紙へやった。
               墨磨り:内田水香  筆:片山大拙(吉備中教師)
     風邪気味だったが上半身裸になり30分端座後に挙行(月は東天に昇る)
2.1 浅口郡富田町の酒屋・山本恭平氏宅へ。一臼先生横額「乾坤」在り。
        2曲屏風の揮毫依頼あり。

2.2 大原桂南先生より、矢野惣平氏留守宅へ「日展特選の賀詞」届け有り。
   『筆硯如今功正成 抜群特選有聲名
      知君枝倆日愈進 藝苑他年任不軽』
〜添書〜74才桂南居士
       湯山春峰堂へ2曲屏風表装依頼する。
2.4 上月旭城と 第2回奎星会展につき話し合い。

2.6 上田桑鳩先生来岡=松井旅館泊(余公俳林堂前)〜第2回奎星会展の指導など
        四国からも参加して盛会

2.8 第2回奎星会展出品作=李白詩「労々亭」五言20字揮毫、
                     墨磨り佐川一象、酒屋・山本恭平氏依頼品

         (以上S28.2.11までの回想日誌 昭和28年5月12日記

この頃の所感=「芸術には、道には権威は不必要である。実る稲穂が無言の内に語っている。古今を通じて〜」

2.21 第2回奎星会展審査のため上京(同行:佐川、安藤、森田、内田)
3.3 卒業証書書き始める〜

3.10 朝日高校書道部第二代(藤原邦也主将、虫明、大崎、欠:竹内、大森)送別会する。   二年:栗尾、唐井、平井、一年:岩藤、岡本、今川、大岩、中西、浪速 

  この頃より本格的に書論「人生と書道」書き始める。

3.12 山本事務官依頼の板額「観山荘」揮毫
   古川教官依頼の額「観自在」揮毫〜いずれも国富校舎で。

3.22 東京から返送された第2回奎星会展出品二曲屏風作を酒屋・山本恭平氏宅で見る。

=?けい星誌作品記事〜

2曲・「労労亭」S28紀行文

 
4.2 倉敷川西町・だるま薬局の宴会に行って一泊。 
この頃魚釣りを時々する。たまに義父と連れで行く。

今年の第9回日展は無鑑査出品となる。
        山陽記事、禅公案


                〜以上、昭和28年前半までの記録〜



一臼先生の「ふるさと」日誌? 昭和1年(1926)〜20年(1945)

  • 2009/01/30(金) 00:00:01

<河田一臼記念館TOPへ>


<一臼先生・日誌「ふるさと」 >
  
 
戦前柳井原生家写真    戦前柳井原小学校写真
 中央山裾の右側家が、一丘先生生家(戦前) 中央小高い林の中が柳井原小学校(戦前)


 次に示す「ふるさと」日誌が、随筆「かえりみれば」の原型となっている。

1〜5巻B189-32=ふる里日記1〜5


  6〜11巻B136-32=ふる里日記6〜11


昭和45年(1970)頃の柳井原風景 B91-65=1970柳井


 それぞれにつき、記述内容の概要をひもといてゆきます。


B122-40=ふるさと1〜3

「ふるさと」第一巻    昭和27年(1952)12月23日午後2時書き始める〜
                     【〜〜〜】のところは原文通り。
電報=ふるさと 第一巻は、姉上様 の危篤通知の電報から始まっている。
 電文「アネキトク スグイケ フサエ」
 発信は金光実家の奥様であり、受信月日は昭和27年11月26日である。当時の一丘先生は長女(高校1年生)次女(中学1年生)と共に、岡山市大黒町(現在の中納言町)のYs氏宅二階に居住していた。 
 その夜帰宅が遅かった一丘先生は夜半の下り列車に乗って、危篤の姉上が待つ柳井原に向かった。12月3日午後6時過ぎに姉上様が他界されてからは、特に『宿命』を感じて切々たる17頁におよぶ文面を書きつづっておられる。

 <12月23日記載内容の大筋>
酒津の山にかかる大きなまんまるい月が印象的だったこと。……そして自分の出生のこと、幼少の頃の出来事を思い出す。 特に母の死後は、姉上が母親代わりで陰に日向に自分の面倒をみてくれたこと〜。
一丘先生が姉上危篤の電報を長女から受け取り、夜半の下り列車に乗るまでには少し時間があった。長女に墨をすらせて半折へ縦「一」筆を揮毫した。この筆は上田桑鳩先生が送って下さったもの。その年の日展特選を受賞した筆である。 姉上が回復できたらこの縦「一」字作品を表装しよう。不幸の時は姉上の棺の中に収めようと決意した。
次女はグーグー眠ている〜(ここまで書いた処で大原桂南先生来られる)
27日真夜中玉島駅で下車してタクシーに乗ってなつかしい生みの親ふる里柳井原へ。姉上は生きており近親者が枕辺に集まった。さまざまな姉上の思い出が一丘先生の頭に浮かぶ。
28日は大元の黒住様へ平癒祈願に参拝し、ゴマ札を頂く。長女次女を岡山から帰らせて、三女次男の世話をさせる。姉上の子供達のことなど思う。
29日の引き潮時に突如姉上は苦しがってあばれたが何とかもちなおした。父の数え82才臨終の時が引き潮だった。
30日昼に浅野家の墓に参ったとき、突然気高い小鳥の声〜太陽は輝いている。ああ永遠〜姉は逝くのだと一丘先生は感じた。夜は姉上の長男が戦争談を話した。南方で戦死した隼戦闘隊長・軍神加藤のこと。
12月1日まで学校は欠勤した。
12月2日学校出勤。この日の帰途に高梁川西堤防で仰いだまんまるい月。この時自分の生涯を記録する「ふるさと」手記を書く決心をした一丘先生である。
 【お月様ありがとう。お姉様ありがとう】
12月3日学校へ出勤。帰途に姉上のかかりつけお医者さんと出くわす。姉上の次女婿のオート三輪に追い越される。家に着いた〜姉上の臨終である。遂に逝った。ああ。
12月4日告別式。半折に揮毫した縦線「一」を棺中の姉上の背にこっそりおぶってもらう。数え年59才午の歳(厄年)
 【姉さんよ一夫をよくここまで育てて下さった。あなたこそ永遠の人です。安らかに、さようなら。そして来年の日展も守って下さい。私は宿命の筆の生涯を突き抜けます。さようなら】 (17頁)

<昭和27年12月30日記載内容の大筋>

金光で家族一同餅つきをする。家族それぞれの生年月日など記載。
一丘先生自身の幼少のことなどを追憶して、克明に書きつづる。 〜これら幼少時代の出来事が随筆「かえりみれば」の草案になっている。
父の母(祖母)もまだ生きており、88才で大往生。家は豆腐屋を営み富裕であったが、父が浄瑠璃などにこり放蕩して財産をなくしてしまった。父は百姓したりアゲ屋などしたが、結局金欠となり渡し守となった。生家のところが貯水池となり、家を移転したが移転料も父が使い果たした。(これらの有様から想像するに、一丘先生の幼少時代はかなり厳しく淋しいものだったと伺える)
勉強は何故か好きだったが、喧嘩もよくした。川泳ぎや松茸盗人の無実の事件、ダイナマイト事件などなど〜12月になると「いのこ」祭りの挙げ句は部落同志の喧嘩。兵隊ごっこもした。
小学校3年頃だったか、書き方(現在の習字)に何か深いものがある様な気がした。これが一丘先生の宿命の門出であったと回想されている。(10頁)

     B40-60=新婚一夫先生 新婚当時の河田一夫先生。フサエ先生 B37-60=新婚フサエ先生


<昭和27年12月31日記載内容の大筋>
夜10時半頃〜家内の大掃除を済ませ、7人家族揃っておうどんとおそばを頂く。その後、一丘先生は幼少の思い出を更に綴るべく「ふるさと」日誌に向かう。
柳井原尋常小学校6年から上級学校への進学は、学資がなくて無理であった。卒業後は船穂尋常高等小学校高等科に入学した。成績はクラスでトップであったが、いたずらもよくした。
結局船穂尋常高等小学校は1年間でやめ、柳井原小学校の給仕をしながら勉学した(1年間)。この頃満州行きの誘いがあるも、年老いた父一人残せず中止した。鉄道勤務、海軍志願兵、飛行士などいろいろ考えたが全てやめた。
遂に、師範学校一部(5年制)の入学試験を受けることに決める。受験資格は高等小学校2年卒以上である。郡内からでも1,2名しかパスできない難関であり高等1年しか行っていない一丘先生は人並みではいけない。
大正天皇の平癒祈願をかねて、井戸の水かけ・願掛けをした。水かけのあとはジョギング。大正天皇崩御:大正15年12月25日。昭和に改号(元年は6日間のみ)


■岡山師範生時代

明けて昭和2年(1927)。岡山師範学校受験〜パス!(一丘先生15才4ヶ月)
 120人中の60番。合格率4人に1人。  保証人などの書類ができ、岡山一中正門南のN氏宅に住み込み手伝い・通学となる。                        (6頁半)
ここで0時となり<昭和28(1953)年1月1日>年明けである。
【今年の日展(無鑑査出品の年)もやるぞ、一生の決定線。幸運あれ】

◎昭和28年の元旦は天気上々。雑煮のお餅は一丘先生5つ、奥さん5つ、長女5つ、次女4つ、長男4つ、三女3つ、次男1つであった。年賀状三百枚舞い込む。午後奥さんの父母のところへ年賀。義父は数え72才、義母は73才、共に健在である。雑煮の餅は、義父が6つ、義母が2つであった。
さらに回顧録は続く  
 一夫青年1年?.   B38-9=T15年師範学校
 入学時の河田一夫          当時の岡山県師範学校
岡山師範学校一部へ120名が入学。甲乙丙3組のうち、一丘先生は甲組。
住み込み先のN氏宅から東山の師範学校までは徒歩約20分。かなり苦学であったが頑張った。1年の時英語の点が45点で朱がついた時はひやっとした。
2年の夏、脚気になって倒れた。一時は危篤状態になったが、やっと治った。全快後は郷里から通学、倉敷駅まで自転車で上り列車に乗った。師範学校から給費の月7円で不足する時には姉の嫁ぎ先から援助して貰った。
 当時の岡山城岡山城.jpg   柳川筋〜岡山劇場 柳川筋・岡山劇場

師範4年から勉学重くなり、2学期より寄宿舎に入った。
水泳部での思い出が多い。1500m専門の一丘先生が参加した、六高主催の大会で優勝したこと。この時多度津中学の遊佐選手(ベルリンオリンピック百m競泳で銀メダル獲得)の凄い泳ぎを見たこと。海流を知らずに大失敗したこと。1000m競泳で1等となり、芸者さんから優勝旗を渡されたこと。10kmの遠泳に成功したこと。などなど
S4.7遠泳記念 水泳部員〜 六校主優勝
 遠泳成功記念(S4=師範3年夏)                六高主催水泳大会・優勝(S5=4年夏)

師範4年(昭和6年)、学校で大火が発生する。鎮火後は東署に勾留されて取り調べられる。
4年の2学期(9月の始め)に書道(当時の習字)をやろうと決心する。上之町の井上商店で羅紋硯を買って来る。この硯は今なお愛用している。
この前後に『雄峰』書号をご自身で命名され、習字雑誌への書作品投稿練習を始める。(卒業までに、2段格まで取得される)
勿論 「習字部」には入籍していた。教師は大原桂南先生。先生の膝下からは多勢の達筆が出ている。しかし大原先生はかけ離れていた。       (以上元旦記載〜10頁)
      B134-90=習字部揃 習字部一同(昭和6年)

師範学校は昭和7年3月17日付け卒業。後から思うと、何となく画一的教育で大人物は育たない雰囲気だ。 
おん麦(男子師範)めん麦(女子師範)のこと。傑物的先生、絵画の吉富先生、歴史の永山先生、そして習字の大原桂南先生のこと、英語の杉山先生〜のことなど。
入学当時は剛毅な能瀬校長先生であり、次は副島校長であった。
                            (以上8頁半〜昭和28年1月8日午後4時となる)

更に教頭先生や他の先生方の思い出。教練もあった。事務の先生方も。
【本科正教員免許状を手にしたとき、振り返っての5年は長かった。済んでみれば短い。卒業前の試験後というものは、洋服屋が寸法をとって作ってくれた。三十円の服とレインコートを身につけて中折れ帽をかぶってギュッギュッと音のする新調の靴を履いて、寄宿舎をごとごとと舎監の眼をぬすんで挨拶回りをして下級生の勉強の邪魔をしたことだ。】

赴任する学校は昭和7年3月31日の新聞発表で「浅口郡西浦尋常高等小学校」と知った。ふる里から自転車で通勤可能である。


■海軍短期兵時代

卒業の前に5人が選ばれて5ヶ月間の海軍短期現役兵として決定した。卒業して直ちに教壇に立たなくてもいいのだ。3月31日に西阿知駅より呉に向けて出発の時は、柳井原の人々が旗を立てて祝ってくださった。
4月1日呉海兵団に入団。四等水兵として5ヶ月間の海軍生活である。
                                 (8頁 昭和28年1月9日午後12時) 
最初の一ヶ月は全くの外出禁止で艦砲射撃訓練、手旗信号、カッター漕ぎ、甲板掃除などで鍛えられる。やがて二等水兵となり、乗組員1500人、二万三千ton級の軍艦日向に乗る日がきた。連合艦隊数十隻で関門海峡を出た。全国師範から選ばれた約二百人が、戦艦それぞれに分乗した。 
        V28-40=戦艦乗船前の一夫              海軍仲間5人

昼飯後に1時間の午寝があったので、文検試験合格を目指して小筆で練習する。軍艦航行に似せた「書き判」を考案した。
5,6,7,8月の約4ヶ月間にわたっての戦艦乗船中の厳しい訓練、思い出を延々と記述しているが、ここでは省略します。
戦艦日向から特務艦間宮に乗り換えて、鳴門海峡を通過し美しい瀬戸内海を航行して呉海兵団に帰った。帰ってからの休憩中に、ふと好奇心で煙草を口にしたのが煙草愛好家の始まりであった。昭和62年に喘息のため煙草と酒をやめた。
昭和7年8月31日退団式挙行。一丘先生数え年23才(満20才)
【軍楽隊の「蛍の光」の吹奏に送られたときは、猛訓練中など二度とこんな所へ来るもんかと思うくらいの鬼の眼にも涙がほろほろと落ちた〜】
海軍生活中のこの年7月に、ふるさと柳井原では屋形船がてんぷくして遊覧中の13人が死亡するという一大事があった。


■連島小学校時代

昭和7年9月2日岡山県浅口郡連島町西浦尋常高等小学校訓導として、月俸46円で赴任した。
最初は5年生女子組に臨時配属されて、不真面目な女子児童にふくれ面を叱って大失敗した。以後は女子に顔のことをいうのは謹むことにした。 (9頁 昭和28年1月12日夜12時過ぎ

西浦小赴任後まもなく、先生方何名かで久戸瀬春洋先生に習字を指導してもらった。それから3年間、春洋先生に個人指導を受けるため毎日曜日に柳井原から金光の先生宅に通った。この頃、鍋谷紅洋氏、上原移山氏、中桐翠岳氏と知り合った。
西浦小勤務中に岡山市内の小学校習字主任に応募したが、全て失敗した。しかし幸いなことに、西浦小の習字レベルは上がり、3年後には県下でも有名になった。
 西浦小で習字実施研究授業をする当時の雄峰先生 浦小=研究授業?.


昭和10年岡山での文検予備試験にはじめて挑戦し、合格する(31名中1人)。夢のよう。 
本試験は東京で行われた。検定委員の鈴木翠軒先生が側に立たれていた。
     習字文検・東京東京での文検本試験・記念写真

昭和10年(1935)5月8日
久戸瀬春洋先生宅で知り合った浅野フサエ嬢と結婚>する。
式場……柳井原キリスト教会(渡辺美千代先生宅)
新居……金光駅前の家
後、西浦小学校付近に居を構えて同じ町内学校へ勤める。(フサエ先生は弘化小へ)

昭和10年7月岡山専修学校(現:丸之内中学校)で大原桂南主宰の黄微書道会主催で書道講習が開かれる。全国より1200人参集する。大書される鈴木翠軒先生の助手をしたり、一丘先生歓びの絶頂期である。
文検本試験合格の電報入る。昭和10年8月5日付けにて、免許状取得。
昭和11年6月長女誕生する。この年は習字の行きつまりの1年間となる。

昭和12年夏に、書道芸術社主催の講習会に出席する。この時初めて上田桑鳩先生にお会いして「遠方からよく来られましたなあ」との感激ある言葉を頂く。他にも天来門下の逸材ぞろいの先生方ばかりであった。
 書道講習会:東京府立第十中学校:1937夏 S12夏書道芸術社講習会

昭和13年(1938)4月より、浅口郡梅山尋常小学校へ突然の転勤となる。
昭和14年夏、朝鮮慶尚北道大邱師範学校への誘いがあり、北京に行かれていた桑原翠邦先生の意見を聞き決定する。 
*【「昭和14年9月26日朝鮮総督府へ出向を命ず」の辞令を手に金光駅発、下関へ。〜中略〜内地よ暫くさようなら。家族の眼にも老父の眼にも、私の眼にも涙が光った。秋は深み行く内地の山陽本線列車は西へ】             (昭和28年1月14日0時過ぎ記す


■大邱師範時代

釜山から急行列車で約2時間して南鮮の大都市大邱着。この度の世話人岡本氏の下宿先・大鳳館へ落ち着いた。岡本氏が丸坊主にしてくれる。朝鮮では断髪して、洋服もカーキ色詰め襟=軍服であった。(この時以来、一丘先生は頭髪に縁がなかった)
        一夫先生S14=28          =師範小5年生
    坊主頭にさせられた河田先生

大邱附属小主事、大邱師範学校長などに挨拶して、訓導兼教諭となる。赴任そうそうに角力指導担当となり、地域優勝までした。
天理教の佐野さん宅下宿には、中学生、師範生、税務署員などが居た。一丘先生は毎日のように奥さんへ手紙を書いていた。 
                              河田先生揮毫の門標 大丘師範小・門標

師範学校長の子供の習字指導に行って、お偉い方々によく紹介された。習字専門の師範教諭に早くなりたかった。
大邱師範学校の卒業式と同じ日の昭和15年3月15日次女誕生。電文「オンナウマレタ」。次女誕生の48日目に一丘先生と奥様、長女、次女の四人で渡鮮される。
借家住所『大邱府三笠町39』 ##=長女・次女
                                                                     昭和15年(1940) 8月
                     

昭和16年5月29日、師範(専属)教諭となり、付属小学校から去った。同年12月8日太平洋戦争勃発する。 
奥様フサエさんは下宿近くの大邱鳳山国民学校勤務となる。長女もこちらに転校する。
   


昭和18年9月に長男誕生する。一丘先生の父が手伝いのため内地より来る。以前長女が病気の時は奥様の父上がはるばる来られた。

昭和17年4月からの舎監の思い出。 
                                   舎監室にて

興亜書道展のこと。慶尚北道書道展のこと(成績表貼付)。泰東書道展のこと。
昭和18年特別講習科生引率して東京旅行、近畿巡りがあった。
         旅行=東京

昭和19年6月助教授に任命される。
諸々の情勢から戦争は負け戦だとふんだ一丘先生は、しぶる奥さんを説得して昭和19年10月10日家族を帰還させる。20年正月には、一丘先生も一度内地へ帰る。大原桂南先生が岡山市立女子商業学校への推挙をして頂く。そして再び渡鮮。
特攻隊で死んで行く生徒達〜  (以上23頁 昭和28年1月17日午後2時記

更に大邱師範学校の思い出は続く。生徒達との葛藤〜校長・教諭仲間とのやりとり〜云々。
大邱師範学校舎監室の南の硝子を通して陽が当たっている。両棟の間の庭に五角堂があった。 多分初夏だったろう。
        「晝(ひる)下り 緑蔭深き 五角堂」
 
心を五七五で表してみたいと思った。よしそれが拙いにしても、私のものであればよい。

そして一丘先生自身の内地帰還にむけて、昭和20年3月末にトランクなど荷物送る。
新任校長から正式許可がおりず「私事旅行」扱いにて了解を得る。

*【いよいよ昭和20年4月25日、この日は三国会談の日だった。朝鮮海峡を渡るのだ。五年半の石の上の生活朝鮮よ。内地で味へぬ数々の思い出よ。〜赴任した大邱師範よ。大邱のりんごよ。波高い朝鮮海峡よ。私は帰るのだ。】
無事に博多へ入港できた一丘先生は関門トンネルを通り、月明の夜に東上して第二のふる里金光に着き、ほっと吐息をもらした。   (以上20頁 昭和28年2月12日午後11時半記

                      ◇  ◇  ◇

一臼先生の「ふるさと」日誌? へ続く



D42玉龍会展

  • 2009/01/17(土) 16:38:13

第42回玉龍会展
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77

一臼先生の出品作品の内訳(屏風作品を主として)

  • 2009/01/15(木) 20:07:21

<河田一臼記念館TOPへ>


                     詩句内容は一臼先生の墨場必携を参照して下さい。


S31(1956) 第5回奎星会展・審査員出品   smileマーク
        六曲屏風「長干行」  (李白詩 五言150字) (部分)
    六曲「長干行」一部




◆S27(1952) 第1回奎星会展・審査員出品  最高位・特別賞
          六曲屏風「離思」(陸游詩 五言120字)
  =「離思」知事室




^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
S24(1949) 第5回日展 初出品     入選
          
二曲屏風「余清」           常建「西山(にしやま)」 (五言100字)
                                                                  =「余清」作品画像


S25(1950) 第6回日展 入選 
          
六曲屏風・曹丕「燕歌行」 (七言105字)
=「燕歌行」西大寺



S26(1951) 第7回日展   入選(特選候補) 
          
六曲屏風・陸游「長歌行」  (七言140字)
=「長歌行・全22」.=「長歌行・全11」.



S28(1952) 第8回日展      特選・朝倉賞 
          六曲屏風・鮑照「北門行」  (五言100字)   表具:湯山春峰堂(東京) 

S29(1953) 第9回日展   無鑑査出品 
          四曲屏風  「無門行」 (王陽明=諸生夜坐  五言110字)


S30(1954) 第10回日展   落選  六曲屏風   以降〜不出品〜 



^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
S24(1949) 第2回 書道芸術院展   推薦第五位読売新聞社賞
          二曲屏風・李白「春帰」 (五言60字)



S25(1950) 第3回 書道芸術院展   推薦第三位読売新聞社賞
          六曲屏風・「木蘭の舟」(李白「江上吟」 七言84字)
3回書道芸術院6曲「木蘭舟」.



S26(1951) 第4回 書道芸術院展    特別賞
          六曲屏風・「幻想」 (謝玄暉「暫使下都夜発新林至京邑贈西府同僚」 五言100字)


^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

◆S33(1958)第10回毎日書道展・審査員出品
S33第10回毎日展出品作







◆S33(1958)第10回毎日書道展・審査員出品









◆S33(1958)第10回毎日書道展・審査員出品 


    ----------------------------------------------------------------------------------------------











上田桑鳩先生

  • 2009/01/12(月) 16:46:45

<河田一臼記念館TOPへ>




上田桑鳩先生を囲む会 (昭和41年於:松井旅館)

   

         



                  




桑鳩先生揮毫の扇作品
     

             

      
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昭和二十年代頃の上田桑鳩先生書簡

○書道芸術院脱退通知文〜
芸術院脱退=・・封書 芸術院脱退文〜修正









a
----------------------------------------------------------------------------
桑鳩先生に入門(昭和21年)する以前の書状


 昭和12年8月の書道芸術社講習会で初めて上田桑鳩先生とお会いした後、一臼先生の礼状に対して、次のような書状を上田先生は出しておられる。

 順=文04順=文05

S12封書〜順・Vh50=順=文01順=文02順=文03

「拝復  ご丁重なる御手紙恐縮致侯  講習会中ハ誠に失禮致侯  
御地ハ全国中書道の先進地に侯得共 目下之処傾向としてハ二三
流に堕し居侯 こと実に遺憾に存侯 貴殿等大いに御努力真に千古に
通して恥じからざる書道建設の為に 御尽粋相成度願上侯 乍不及
小生も後援可致侯 もし雑誌見本等御入用存じ十部御届申上侯
よろしく願上侯   草々  九月三日   上田順    河田様」

雄峰時代(昭和十年代=1935-1945)の書状

  • 2009/01/10(土) 12:22:29

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桑原翠邦(本名:清美)先生からの書状



△大府三笠町宛の作品批評文
批評文封書

批評文ー後 批評文ー前


△翆邦先生は気さくに、河田先生宛の書簡を出しておられる。
   大丘三笠宛葉書表・翠邦   三笠宛葉書裏・翠邦


△一人住まいの大鳳町宛であるから、昭和14年10月に大邱に出向かれた翌年昭和15年2月の封書。5月には奥様等同居である。
   大丘鳳宛封書・翠邦




  金光葉書?表・桑原 金光葉書?裏・桑原 




 連島葉書?表・桑原 連島葉書?裏・桑原




一臼(雄峰)先生が大陸(大邱師範)に出向く一因ともなった、桑原翠邦先生からの葉書便。(昭和14年=1939)
    
翆邦・ペン葉書表

  「七月来肋膜にて病〜〜在御返事遅れ申し
天来先生没後は東京にも権威者少なかるべく 
満支にも無論えらい先生もよい資料も無く候
現代は書道界の渾沌時代貧困時代に付 志
あるものは所謂自主独往 自らが自らを養ふ以外に方途は無かるべく
但し国家的には有能の士は一人でも多く大陸へ渡るべきと存じ候
えらい先生には一生に一度會へばよいと小生は考
へをり候 回復をまって又改めて 敬具
                   九月五日

翆邦・ペン葉書裏



翠邦先生からの最初の書状を受けたのは、書道芸術院の講習会(昭和12年=1937)で東京に出向いた時である。
                                       S12封・桑原
「八月中ハ火曜夜分の外大概在宅のつもりに有り何時にても御来訪〜〜〜
只今一二人御いでの方も有り候日中はあつく候に付書道
芸術の講習に御出席夜分にても御遊来如何に候也
不取敢御考慮  敬具  八月二日      清美    河田様 」
S12桑原封書02 S12桑原封書01






大原桂南先生からの書簡

  • 2009/01/09(金) 20:11:10

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大原桂南(本名:専次郎)




邑久郡下笠加からの書状(戦後・昭和20年=1945以後〜)






岡山市難波町からの書状(戦前・昭和20年=1945以前)




S11? -はがき
S1--はがき はがき文面=S1--.     S1111はがき  はがき文面=S1111



S10 封書〜
               S10封書西浦=S1009
S10西浦文〜B S10西浦文〜A




「雄峰」雅号の改変について
 一臼先生の最初の雅号「雄峰」は、岡山師範時代の昭和5年頃に先生ご自身が命名されたものです。気分一新のためか否かは不明ですが、約10年後の大邱師範時代の昭和16年前後に改号について真剣に考えられ、桂南先生に相談されたようです。
 大邱府三笠町の河田先生にあてた、大原桂南先生の手紙がこれを物語っています。 
                             改号封書表書き・

           =?改号文 =?改号文

       =?改号文 =?改号文

      =?改号文

=?改号文 =?改号文
追伸において桂南先生は『改号』に対する所感を述べておられる。
「雅号ハ雄峰にて十分と・これを変更するのは何か動機が〜〜〜
若し変更するのなら桂山より外に何かよいものを考へらたらと存じ申〜」
即ち一度示した「桂山」に一臼先生が余り乗り気でなかったので、無理に
改号することもあるまいと諭されたものと思います。













一臼先生の最初の書の師は、玉島・西浦小学校でお会いになった久戸瀬春洋先生である。フサエ先生と結婚されたのも、久戸瀬春洋先生との縁があったればこそである。

 久戸瀬春洋先生が当時の一臼先生にあてた書状が一通だけ残っています。

  久戸瀬葉書・表 久戸瀬葉書・裏


戦後時代(昭和20〜25年)想い出のふるさと写真集(3)

  • 2009/01/08(木) 22:12:27

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◆書グループ関係〜


■書の美・中央集い
  Zw120=けいせい関係展覧会場


BB11=けいせい集い


BB22=けいせい集い








■岡山・書の美
◇研究会・展覧会
Zw120=岡山書の美

◇書道講習会
Zm=書の美・黄微合同講習・就実


◇合同旅行
BB33=書の美・合同旅行















  ◇親族を訪ねて〜(昭和21年頃)
◆母方(都窪郡常盤村三輪〜河田)
      三輪行き一丘先生     常磐村長と

   三輪・河田親族       三輪・河田おば




◆父方(浅野〜妹尾=吉備郡真備町箭田)
  妹尾吉平妻〜   妹尾笑子   妹尾富美子






■操山中教師時代(昭和23〜25年)


           操山中学教職員




■女子商業教師時代(昭和20〜23年)

  女子商業・職員


             女子商業教職員











雄峰時代(昭和14〜20年)想い出のふるさと写真集(2)

  • 2009/01/07(水) 23:10:23

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大邱師範学校時代   

 旅行ー宇治橋前

   大鳥居前

     円山公園橋の上

         桃山御陵にて

            清水寺にて

              西郷銅像前
         

          特講旅行・〜東京

        =二重橋にて






          総督府前記念

     京城訓練所





草原・大勢坐って 師範柔道部



        S14渡鮮=雄峰先生 S14.12(正月休み=帰郷・連島にて)


  岡本先生      =??先生     崔有練先生    水津先生
   岡本和雄先生


               師範小5年生

               師範付属小ー1

    師範付属小ー2.

師範付属小ー3



                   =先生達9人



  大丘師範小・門標.            碑(表裏?).

碑=◎.    一夫先生S14


続きを読む

奥様(フサエ様)写真帳

  • 2009/01/06(火) 23:17:07

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フサエ先生の教え子
 神島浦小時代のフサエ先生が、習字にとりわけ熱心な女生徒・伊藤伍子さんに、習字雑誌などへの投稿指導をしていたことがありました。
    伊藤伍子・顔写真    伊藤伍子・文のみ

その後、笠岡高等女学校を卒業された伊藤伍子さんは、結婚されて鈴木姓となり東京へ行かれました。
筆・墨から離れられない鈴木伍子さんは、比田井小琴女史(天来先生の妻)に師事してかな書道に精進せられ、東京で書道塾を開設されるまでになりました。
幼少の頃、神島内浦小学校で熱心に教えて頂いた浅野婦佐枝先生(一臼先生の奥様)のことが忘れられない鈴木伍子さんは、昭和62年(1987)9月遂にフサエ先生の現在地を探し当てて来岡し、対面されたのです。
しかしフサエ先生は榊原病院に入院病臥されていました。充分な言葉を発せられないフサエ先生でしたが、伍子さんのことは憶えて居られて「ありがとう」と言われたそうです。
これから2ヶ月後にフサエ先生はご逝去されました。鈴木伍子さんの誠意によって、奥様フサエ様も心地よい旅立ちをされたことでしょう。

   病院宛封書

 伍子手紙B100-65=?文面
鈴木伍子様のその後の消息を知りたくて問い合わせた処、伍子さんの娘様より次のような素敵な押し花便りがありました。
     鈴木伍子の娘様より
鈴木伍子様は1998.10=約73才でご逝去されたそうです。 〜合掌〜








フサエ先生

 ◎連島弘化小時代 弘化小?.

           連島弘化小?.

連島弘化小?.

連島弘化小?.  談笑フサエさん



   外浦E・映画シーン ◎外浦神島小時代

              外浦Dシーン前

                                    外浦小Cリラックス

                                     外浦小B・11名

                                     外浦小A・・大勢


                            神島外浦小〜5
               
                             神島外浦小〜4

                             神島外浦小〜3

          神島外浦小〜2

           神島外浦小〜1


                             神島小0・浅野フサエ先生





10〜20代のフサエ様

         想い出・フサエ嬢二枚



    学生フサエ・友五人と       卒業=フサエ嬢


  フサエ嬢・女学生    ピアノとフサエさん2枚




姉〜弟   なかよし
                        なかよし


玉龍会報78(S51=1976.12)号:一臼先生ご夫婦へのインタビュー記事

<河田会長宅を訪ねて>
 市役所から老人手帳が配達されてがっくりされてる先生は65才になられた。

――先生のお生まれになったところはどこですか。

会長 浅口郡船穂町柳井原540(と番地まで正確にいわれるところが先生らしい)

――先生はずいぶん、がき大将だったようですが

会長 (しばらく考えて)田舎では正月に「亥の子」という祭りがあって、ワラをしめて土地の上をたたくのです。今夜の亥の子を祝わんものは鬼うめ蛇うめ(角のはえた子うめと奥さんが続けられる)といいながら祝う。その時部落の子供同士でけんかをするのです。その時一年上の子供と組み打ちをして指を噛んだりして、とにかく上級生に対してはよく向かって行きました。ある時先生に見つけられて教員室に呼ばれた時、「けんかもしなければならない時がある、なぜなら上級生が下級生をいじめるからだ」と言うと先生は黙っていました。(この頃からすでに先生の反骨精神はあったのだ)

――勉強の方はいかがでした。

会長 どういうわけかよく出来ていました。一年から六年まで優等で九十七点位はとって、いつもトップでした。好き嫌いもなかったです。

――どんな遊びをされていましたか。

会長 旗とりですね。夏は一日中泳ぎ、あとは魚つりです。高梁川では手長えびをよく取っていました。それからパッチンや独楽ですね。正月には凧揚げもしました。(実に健康的で素朴だったんだなあ)

――お母さんについては

会長 かぞえ年で八才の時になくなりました。

――お母さんの思い出は

会長 一度おぶってくれたこととお風呂へ入ったことをおぼえています。(としみじみと。この頃から孤独を知るようになったのでしょうか)

――お父さんの思い出は

会長 私は一人子で甘やかされていました。厳しいというより無頓着な人でした。

――中学の頃の思い出は

会長 師範学校は五年でね、高等小学校卒業して五年いくのです。思い出は水泳部にいて千五百米の選手をしていたことですね。

 県下ではいつも二番目位でした。一番にはなれませんでした。(遊佐選手と競泳したでしょうと奥さん)それはね昭和六年に近県水泳大会で水泳部が初めて優勝しました。それが最初で最後でしたが、その時多度津中学の四年生の遊佐正憲がいました。非常に速い選手で後のベルリンオリンピックへ出場しましたね。

――その当時、初恋などなかったですか

会長 ないですよ。あったら退校ですよ。

――淡い想いをもつようなことは

会長 ないですよ。(何かあるでしょうと奥さん)

会長 ないですよ。

奥さん  何かありそうですよ、思い残さず言ったらどうです。(笑)

会長 君らみたいなそんな清らかなものはないですよ。

奥さん  いじめりゃせんから言うてごらん。(笑)

会長 ないですよ。そんなものがあるんだったらよかろうけれど。(笑)

――ふるさとの山川は

会長 今にいたるまで好きですが、川の砂利をとったり、新幹線が走ったりして少しうすれましたがね。故郷の人は恋しいのはあまりいません。仲のいい仲根望(「日本の教師として」という著書がある)も東京へ出ていましたから。やっぱり人情豊かな面よりも一人でそだったから、人の同情をあまり受けていないから。嬉しかったのは優等をもらった時、いとこが何かを買ってくれたのを思い出します。自然は懐かしいですが人に感銘は余りありません。その自然も北には堤防をつくり下手にも堤防をつくり人造湖にしていて、また新幹線も通って変わってしまいました。

――書を始められたのは

会長 昭和6年9月の初めからです。何か専門的なことがやりたかったんですね。何もやるものがなかったので始めたのです。

奥さん  絵をやりたかったけれどもお金がかかるから……

会長 絵のこともあって大原美術館で児島虎次郎さんの絵を見たりしていましたが、一つの絵をつくるのに一万円もかかるというので貧乏人には出来んと思って習字をやったんですが、ところが戦後東京へ出したり日展、毎日新聞社へ出品している時は絵より安くなりませんでしたね。

奥さん  ちょうど表具代が月給と同じでしたよ。表具代を半分ずつ払って半分で生活するのが二ヶ月続きました。

会長 こっちが金に無関心で子供が五人いるのですから大変でした。おかあちゃんがよくやってくれました。

――奥様とはいつ頃のお知り合いですか(今日のインタビューの核心に近づいてきました)

会長 昭和六年頃からかな。

奥さん  そんなに早くないですよ。私は字がへたくそだから字を習いに行っていました。女一人ですよ。たくさんの男の人がいました。勇気があったでしょう。その時この人(会長)もいましたが別に意識なんかしていませんでしたよ。(笑)その頃ちょうど私の弟の五牛(書家浅野五牛氏)にすすめて私の代りに字を習いに行かせたのです。そうすると弟がこの人の所へ字の練習に行くようになって(会長は連島へ下宿して文検に通るべく猛勉強していた)弟が毎晩のように連島へ行き、私に『お姉さん、あの人は家の中はめちゃくちゃにしているけれど気はよさそうなから結婚しなさい』と言ったんです。(笑)その先はおとうちゃん話しなさいよ。

――先生は奥さんの印象はどうでしたか。

会長 ご立派な人じゃなあと思いました。

――それだけですか

会長 それ以外にありますもんですか。この人はたくさん結婚の申し込みがあったようです。ね。

――結婚しようと思われたのは

会長 もちろん私の方から申し込むんでね。こんなぶ男には誰も申し込んでくれる女(ヒト)がいるわけがないでしょう。

奥さん  (笑いながら)ほんとにこの人とどうして結婚したのかわからないの。それこそニキビがいっぱい出て紫色の斑点が顔中にでていてすごい顔をしていました。私の母が、それでも河田はかわいらしい顔をしているよと説得してくれて、父は、うちの弟は難しいのにその弟が尊敬するような人だからいい人だろうという理解の仕方で、今では想像もつかないでしょう。

会長 親が薦めたわけで、それでいやいやながら来たわけじゃ。

奥さん  いやいやながらじゃないけど好いて喜んできたわけでもないですけれど。結婚して洗面器に硼砂末を入れて水を汲んであげていたらひと月程で綺麗になったんですよ。

(親が可愛いといったのはこれじゃとアルバムを先生が見せてくれる。水兵さん姿が可愛らしい)

――結婚を申し込むのは先生ですがどうしてですか

会長 立派なからです。(と一言)

――顔が可愛らしかったからとか

会長 上品でしたからです。

奥さん  つんつんしとったでしょう。

会長 それは気高いからです。(私に向かって)今あなたが見ての通りでしょう。本当のことを言っとんです。あなた方がやっとるようなすき焼きをくうようなもっちゃりした味なんかありませんよ。

――新婚の頃は(昭和十年なのです)

奥さん  おとうちゃん(会長)は借財を背負って結婚したから楽しいより必死でした。文検に受かるために一生懸命字を書いて二階で文鎮の音がいつもしていましたね。新婚らしいというのは朝起きたら硼砂水で顔を洗ってもらうように用意していたことくらいです。私も教員で共働きで毎日が必死でした。(今はとてもなごやかな表情で話される)

昭和十四年には朝鮮へおとうちゃんが単身赴任しましたし、次女がお腹におりましたし、昔の事というとものすごく苦しかったという思いばかりで、楽しいなんていうことなかったです。厳しい世の世相で、食べることが難しかったんです。今の人は本当に幸せですよ。その頃は皆目かくし耳かくしで戦争については何も知らなかったのです。だから戦後苦労が跳ね返ってくるのが全く想像できなかったですね。私達の頃というとどうしても戦争があって笑えないような気持ちになってきますね。

――先生は子供さんに対してはどうでした。

奥さん  勉強については厳しいことはなかったですが、人間としてしなければならないことに対してしなかったりすると、非常に厳しい体罰を科していましたね。(こういう厳しさはずっとかわられてないような気がします)

――最後になりますが奥さんからみて百点満点の何点くらいあげられますか

奥さん (しばらくあって)点などつけられませんね。字のことについては、あの人自身に忠実でよくやってきたと思います。お金のことと家のことについてはあまり知らない人でした。家でも余りどうこう話をする人でなかったけれど教え子が戦争に行くときに別れに夜中に来訪したりするとおとうちゃんも涙しているのを見たり、もてあますような生徒が「先生の言われたようにやりました」等と言いに来たりしていました。とにかく私達には戦争があったからいやでしたね。(何度も戦争はいやですねと言われたのが本当に印象的でした)

――先生からみられたら奥様は何点ですか

会長 (即座に)百点満点です。それはね。精神の美しさを主としますね。おじいさんも玉島聖人といわれた人で、それを継いでいますね。今でも物というより精神を尊びますね。  (終)

 

<インタビュー後独白>インタビューした全てを載せることができませんでしたことをお詫びします。先生は思春期から青年にかけてやろうとした書の道を苦しい中をまっしぐらにやってやりぬいてこられ、奥さんは戦争という大きなうねりの中でしっかりと先生を支えてこられたことを感じました。先生の見せてくれたアルバムには女優田中絹代の若かりし頃の写真があったりして楽しい夜でした。(インタビュアー:K氏)



雄峰時代(昭和1〜20年)想い出のふるさと写真集(1)

  • 2009/01/05(月) 00:14:39

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連島小学校時代の思い出


倒立する雄峰先生   別府邸=雄峰先生   三宅英昭氏と〜



父浅野好太郎   父好太郎・裸 裸=一夫







西浦小・研究授業?.  研究授業?.

            西浦小・一夫先生                     自転車・雄峰先生


   西浦高小ー旅行    髪あり一夫


                                          連島西浦高小・旅行



西浦小・児童まがみ  西浦小・児童三宅.  西浦小・児童渡辺  西浦小・児童八代





             S12夏書道芸術社講習会
                 書道芸術社主催講習会参加


  習字文検本試験(東京)習字文検・東京

        文検上京 同上




海軍短期現役兵時代の思い出

四等水兵・一夫 海軍ポートレート  海軍仲間5人


      海軍退団・記念写真
                  短現=退団記念



岡山師範学校の友人  

    師範同期近藤氏
           同期の近藤正樹氏



               旗を持つ田口君                 大久保万亀二君


木登り7名  木登り8人  東山公園9人
                           東山公園で〜

 友6・河田江草田口  花房・河田
                写真館での記念ショット

     田口・山本      大館君と〜


堀(保都)君 内田(小川)君 坪井君 大森君

  太田君. 小橋君 山本君 山崎君

   江草君 古本君 吉井君 井上君

          〜芳夫君 ピアノ君 白神君

白神・坪井                                   奈良師範・宮崎君







  B38-9=T15年師範学校
              昭和元年ころの、岡山師範学校
一臼先生(一夫青年)は、昭和2年(1927)春から昭和7年春までの5年間、ここに通学された。

河田一丘先生・作品集

  • 2009/01/01(木) 12:00:00

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これまで余り確認されていなかった作品に注目してみたいと思います。
 




昭和34年(1959) アメリカ・シヤトル展出品作

〜朱印帖の旅〜

  • 2008/11/30(日) 23:32:15

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京都の寺社 

  Bh40=永観堂         黄梅院


 

興臨院  高台寺  Bh40=圓徳院




               Bh40=芳春院         Bh40=総見院

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